532年

コンスタンティノープルでニカの乱が起こる。

ビザンツ帝国の首都で発生した大規模な市民暴動「ニカの乱」。
532年1月13日、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルで市民暴動「ニカの乱」が勃発。 原因は皇帝ユスティニアヌス1世の増税政策と派閥抗争にあった。 暴徒は歌劇場から市内各所へと抗議を拡大し、多くの建築物が焼失。 ユスティニアヌスはテオドラの助言により鎮圧軍を投入し、犠牲者は数千人にのぼる。 乱後、ハギア・ソフィア大聖堂などの再建が進められ、帝国の威信回復を図った。
532年 コンスタンティノープル ニカの乱
888年

パリ伯ウードが西フランク王国国王に選出。

西フランク王国でパリ伯ウードが貴族会議により国王に選出される。
888年1月13日、フランク王国西部の諸侯が集まり、パリ伯ウードを国王に選出。 当時の王位継承問題を背景に、王権と有力貴族の勢力均衡が図られた。 ウードはヴァイキング襲来への防衛を重視し、要塞化や海賊対策を実施。 その統治は西フランク王国の政治基盤を強化し、後のカペー朝成立の礎となった。 彼の即位は封建制下における貴族の影響力増大を象徴する出来事とされる。
888年 パリ伯 ウード 西フランク王国
明徳2年/元中8年12月19日

明徳の乱がおこる。

室町幕府内の実力者対立が激化し、足利義満らと守護大名間で明徳の乱が起こる。
1392年1月13日、室町幕府第3代将軍足利義満と守護大名山名氏清らが対立し、明徳の乱が勃発。 幕府権力の高まりを背景に、山名氏や大内氏などが自主権を主張して戦端を開いた。 一連の戦闘は京都周辺で激化し、義満軍は綿密な兵糧・補給戦術で優位に立つ。 同年4月には義満が勝利を収め、乱を鎮圧したことで将軍権威が確立。 この乱の制圧により室町幕府の中央集権化が一層進展した。
1392年 明徳 元中 12月19日 明徳の乱
元禄8年12月9日

赤根屋半七と遊女の三勝が、大阪千日寺の墓地で心中して果てる。二人のはかない恋は、歌舞伎の演目「三勝半七艶容女舞衣」として劇化され、現在も上演されている。

大阪千日寺の墓地で赤根屋半七と遊女・三勝が心中し、その悲恋は歌舞伎化される。
1696年1月13日、大阪の千日寺墓地で材木商の次男・赤根屋半七と遊女の三勝が心中して果てる。 身分差や商家の家督問題などから許されぬ恋とされ、二人は愛憎入り混じる運命に翻弄された。 この物語は近松半二らによって浄瑠璃・歌舞伎『三勝半七艶容女舞衣』として上演される。 鮮やかな衣装や舞踊を取り入れた演目は江戸時代から人気を博し、現在も上演が続く。 はかない恋と悲劇性が庶民の心を捉えた代表的な心中ものの一つとされる。
1696年 元禄 12月9日 艶容女舞衣
文政10年11月27日

加賀前田家の江戸藩邸に御守殿門(現在の東大赤門)が建立される。

加賀前田家江戸藩邸の御守殿門として、現在の東京大学赤門が建立される。
1828年1月13日、加賀藩主前田斉広の江戸上屋敷に御守殿門(現在の東京大学赤門)が建造。 門は漆塗りの朱色と黒漆塗りの屋根が特徴で、武家門建築の優美さを示す構造となった。 維新後、東京大学の正門として使用されるようになり、学問の象徴として親しまれる。 赤門は重要文化財に指定され、東京大学の象徴的ランドマークとして観光客にも人気。 加賀前田家の格式と江戸時代建築の美を今に伝えている。
1828年 文政 11月27日 加賀 前田家 御守殿門 東大赤門
1847年

アメリカ合衆国とメキシコ合衆国がカフエンガ条約に調印。米墨戦争のカリフォルニアでの戦いが終結。

米墨戦争のカリフォルニア戦線を終結させるカフエンガ条約が締結される。
1847年1月13日、アメリカ合衆国とメキシコ合衆国がカリフォルニア州北部のカフエンガで停戦協定を締結。 米墨戦争におけるカリフォルニア戦線の事実上の終結をもたらし、両国間の敵対行為が停止された。 条約は正式な講和条約ではないものの、地域紛争の一時的解決に寄与した。 その後、1848年のグアダルーペ・イダルゴ条約により戦争全面終結と領土割譲が実現。 カフエンガ条約は西部開拓史とアメリカの領土拡大における重要な一幕となった。
1847年 アメリカ合衆国 メキシコ合衆国 カフエンガ条約 米墨戦争
1876年

東京でマイナス9.2度を記録(東京の最低気温記録)。

東京で観測史上最低の気温マイナス9.2度を記録する。
1876年1月13日、明治期の東京で最低気温マイナス9.2度を観測し、史上最低記録を樹立。 この極寒の気象は当時の記録的寒波の一環で、住民やインフラに大きな影響を与えた。 家屋の凍結被害や水道管の破損、暖房手段の不十分さが深刻な生活困難をもたらす。 記録は気象庁によって長く更新されず、日本の冬期気象史に残る出来事とされる。 近年では観測機器の変化などで比較が難しいものの、伝統的に語り継がれる寒冷記録である。
1876年 東京 最低気温
1898年

ドレフュス事件: エミール・ゾラがドレフュス大尉の無実を主張する公開状『私は弾劾する』を新聞に発表。

エミール・ゾラが『私は弾劾する』を発表し、ドレフュス大尉の冤罪を糾弾。
1898年1月13日、フランスの作家エミール・ゾラが新聞紙上で公開状『私は弾劾する』を発表。 ドレフュス大尉のユダヤ人差別による有罪判決を激しく非難し、政治・軍事権力の腐敗を告発した。 記事は国中に波紋を広げ、ゾラ自身も名誉毀損で起訴される事態に至る。 ドレフュス事件はフランス社会を分断し、ジャーナリズムと人権意識の転換点となった。 最終的にドレフュスは無罪となり、ゾラの行動は現代でも自由言論の象徴とされる。
1898年 ドレフュス事件 エミール・ゾラ ドレフュス 公開状 私は弾劾する
1913年

北海道の夕張炭鉱(坑名不詳)で火災発生。行方不明の鉱員の生死が不詳のまま、消火のための密閉作業が行われた。53人が死亡。

夕張炭鉱での火災による密閉消火作業中に53人の鉱員が死亡する事故が発生。
1913年1月13日、北海道夕張炭鉱で坑内火災が発生し、濃煙と有毒ガスが充満。 行方不明の鉱員捜索のため密閉消火作業が行われ、作業員53人が一酸化炭素中毒で死亡。 坑内の換気設備不足や救助体制の未整備が被害を拡大させたとされる。 事故は日本の炭鉱事故史における重大災害の一つで、安全規制強化への転機となる。 遺族補償や労働環境改善の議論が活発化し、その後の炭鉱安全基準制定に影響した。
1913年 北海道 夕張炭鉱
1935年

国際連盟管理地域ザールで住民投票が行われた結果、ドイツ復帰支持が多数を占める。

ザール地方の住民投票でドイツ復帰が賛成多数となる。
1935年1月13日、国際連盟管理地域ザールで15年ぶりの住民投票が実施される。 結果は約90%以上がドイツ復帰を支持し、フランスとの協定は終了が決定。 この住民投票はヴェルサイユ体制の象徴的修正と位置づけられ、国際政治に波紋を投げた。 ドイツ復帰はナチス政権の人気を高め、ヒトラーの軍備拡大政策を後押しする要因となった。 ザール問題の解決は第二次世界大戦前のヨーロッパ情勢に大きな影響を与えた。
1935年 国際連盟管理地域ザール 住民投票 ドイツ
1936年

日劇ダンシングチーム (NDT) が初公演。

日本劇場で結成されたダンスチーム「日劇ダンシングチーム」が初公演を行いました。
1936年1月13日、東京・日比谷の日劇(日本劇場)で初めて舞台に登場した日劇ダンシングチーム(NDT)は、当時としては画期的なフォーメーションダンスを取り入れた公演を披露しました。 数十名規模の若いダンサーが息の合った群舞を特徴とし、戦前の日本における舞台芸術のあり方に新しい風を吹き込みました。 華やかな照明と音楽、大規模なダンスシーンは大衆の人気を博し、その後のミュージカルやレビュー文化の発展に大きな影響を与えたとされます。
1936年 日劇ダンシングチーム
1936年

北陸本線福井駅北方を走行中の車内から出火。乗客の女子学生4人死亡。

北陸本線の列車内で火災が発生し、女子学生4人が犠牲になりました。
1936年1月13日、福井駅北方を走行中の北陸本線の列車内で突然出火し、車内は瞬く間に煙に包まれました。 当時は客車の内装に燃えやすい素材が使われており、避難や消火活動が困難だったと伝えられます。 この火災により乗客の女子学生4名が死亡し、列車の安全対策や車内設備の改良が急務となりました。 事故後、国鉄(当時)は防火対策の強化や避難経路の整備を推進し、鉄道の安全基準見直しの契機となりました。