1528年

スウェーデン王グスタフ1世が戴冠。

1528年、スウェーデン王グスタフ1世が戴冠し、新たな支配体制ヴァーサ朝が始まった。 デンマークからの独立を確立し、近代スウェーデン国家の礎を築きました。
グスタフ1世(ヴァーサ)は、1523年の反デンマーク蜂起を制し、スウェーデンの実権を掌握しました。 1528年1月12日、ウプサラ大聖堂で正式に戴冠し、ヴァーサ朝を開きました。 彼の即位は国内の中央集権化を推進し、王権強化の礎となりました。 また、宗教改革を支援してルター派を国教とし、教会財産を没収して財源を確保しました。 これによりスウェーデンは独立国家として安定し、以後200年以上続く王朝の土台が築かれました。
1528年 スウェーデン グスタフ1世
1872年

ヨハンネス4世がエチオピア皇帝に即位。

1872年、ヨハンネス4世がエチオピア皇帝に即位し、国内の統合と防衛に尽力しました。 外敵からの侵攻に対抗し、近代化の基礎を築いた人物です。
ヨハンネス4世(本名:カス・マスファ)は伝統的なアムハラ王家の出身でした。 1月12日にラリベラで戴冠し、帝国全土の統一を進めました。 当時、イタリアの南進を警戒し、強固な軍備を整えました。 リワイア戦争ではオロモ族やムスリム勢力と抗戦し、王権の安定化を図りました。 国内インフラ整備や近代教育の導入にも意欲を見せ、近代エチオピア建設の基礎を築きました。
1872年 エチオピア皇帝
1874年

板垣退助らが愛国公党を結成。

1874年、板垣退助ら自由民権派が愛国公党を結成し、国会開設を求める運動を本格化させました。 日本初の全国組織的政治団体の誕生です。
明治政府は欧米列強に対抗するため近代国家体制の確立を急いでいました。 板垣退助や片岡健吉らは国会開設・憲法制定を目指し、東京で愛国公党を設立しました。 この党は新聞を活用した宣伝活動や集会を開き、全国的な自由民権運動を牽引しました。 政府は警察権を強化し弾圧を加えましたが、運動は全国に拡がり議会制民主主義の芽を育てました。 日本の近代政治史における重要な転換点となりました。
1874年 板垣退助 愛国公党
同治13年12月1日

光緒帝が清の皇帝に即位。

1875年(同治13年12月1日)、光緒帝が清朝の皇帝に即位し、政治の若返りが期待されました。 しかし実権は西太后が握り、改革は容易ではありませんでした。
光緒帝(愛新覚羅載淳)はわずか4歳で即位し、儀礼上の皇帝として戴冠式が行われました。 実権は継母の西太后が掌握し、政治は引き続き保守派が主導しました。 後年、光緒帝は光緒新政を主導しようと試みましたが、保守派の反発で頓挫します。 この即位により中国は列強の圧力下でさらなる改革の必要性が浮き彫りとなりました。 清末の混乱期を象徴する出来事の一つです。
1875年 同治 12月1日 光緒帝
1898年

日本で伊藤博文が第7代内閣総理大臣に就任し、第3次伊藤内閣が発足。

1898年、伊藤博文が第7代内閣総理大臣に就任し、第3次伊藤内閣を組閣しました。 日本議会政治の発展に大きな一歩です。
伊藤博文は憲法制定に携わった立法の父と称される政治家です。 1898年1月12日に内閣総理大臣に任命され、第3次伊藤内閣を発足させました。 この政権下で政党内閣が試行され、自由党などとの連立を模索しました。 しかし、政党政治の経験不足や派閥抗争により支持を失い、2月末に総辞職に追い込まれました。 当時の短命政権は日本議会政治の課題と可能性を浮き彫りにしました。
1898年 伊藤博文 内閣総理大臣 第3次伊藤内閣
1946年

第1回国連総会で国連安全保障理事会が成立。

1946年1月12日、第1回国連総会で国連安全保障理事会が正式に設立された。
1946年1月12日に開催された第1回国連総会で、国連安全保障理事会が正式に設立されました。この理事会は国際平和と安全の維持を目的とし、常任理事国には拒否権が与えられる仕組みが採用されました。発足当初から冷戦下の緊張緩和や紛争解決に重要な役割を果たす場となりました。設立後は朝鮮戦争やキューバ危機など多くの国際紛争の対応に関与し、国際政治の中心機関として機能を拡大していきました。
1946年 国連安全保障理事会
1946年

中国に亡命していた日本共産党幹部・野坂参三が16年ぶりに帰国。

1946年1月12日、長年中国に亡命していた日本共産党幹部・野坂参三が16年ぶりに帰国した。
1946年に日本共産党幹部の野坂参三が中国から帰国し、16年ぶりに日本の地を踏みました。野坂は第一次世界大戦後に共産主義運動に参加し、北京や上海で活動を続けた後、日本の戦時体制を避けて亡命していました。帰国後は戦後政治の混乱期において共産党の再建に尽力し、その指導力を発揮しました。彼の帰国は日本共産党の国内活動再開と影響拡大の重要な転機となりました。
日本共産党 野坂参三
1950年

アチソン米国務長官がアメリカの防衛ラインをフィリピン・沖縄・日本・アリューシャン列島とすることを表明。(アチソンライン)

1950年1月12日、アチソン米国務長官がアチソンラインを表明し、アメリカの西太平洋防衛線を明示した。
1950年1月12日、アメリカ国務長官ディーン・アチソンがフィリピン、沖縄、日本、アリューシャン列島を結ぶ防衛ラインを表明しました。この『アチソンライン』は、冷戦期における共産勢力包囲網の一環として策定されたもので、朝鮮戦争勃発直前の発表でした。アジアにおける米軍の戦略的重要地域を示したことで、同地域の安全保障環境に大きな影響を与えました。日本政府や近隣諸国の反応を引き起こし、地域の軍事・外交政策にも波紋を広げました。
1950年 アチソン 米国務長官 フィリピン 沖縄 日本 アリューシャン列島
1954年

米国務長官ジョン・フォスター・ダレスが、共産圏に対する大量報復戦略(ニュールック戦略)を表明。

1954年1月12日、ジョン・フォスター・ダレス国務長官が『ニュー・ルック戦略』を発表した。
1954年1月12日、アメリカ国務長官ジョン・フォスター・ダレスが共産圏への大量報復戦略『ニュー・ルック』を公式に発表しました。この戦略は核抑止力を重視し、地上軍の運用コストを削減するとともに、共産圏抑止の効率を高めるものでした。従来の大規模常備軍中心の戦略からの転換を図り、アメリカの安全保障政策に大きな変革をもたらしました。ソ連をはじめとする共産勢力へのメッセージとして、核兵器の抑止力を前面に押し出しました。
1954年 ジョン・フォスター・ダレス ニュールック戦略 英語版
1964年

ザンジバル革命。ザンジバル王国の王政が崩壊し、ザンジバル人民共和国が樹立。

1964年1月12日、ザンジバル革命が勃発し、王政が崩壊してザンジバル人民共和国が樹立された。
1964年1月12日、タンガニーカと合併前のザンジバル王国で革命が発生し、アフロ=シラジ党などの勢力が王政を打倒しました。革命の結果、ザンジバル共和国が樹立され、数日のうちに旧王族は追放されました。新政権は社会主義的政策を掲げ、イギリスからの独立を強く打ち出しました。ザンジバル革命はアフリカ独立運動の象徴的事件となり、その後タンザニア連合共和国成立へとつながる重要な一歩となりました。
1964年 ザンジバル革命 ザンジバル王国 ザンジバル人民共和国
2006年

ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世暗殺未遂犯メフメト・アリ・アジャがイタリアとトルコでの25年の刑期を満了して出所。

ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世暗殺未遂犯メフメト・アリ・アジャが刑期を満了し出所した日。
1981年にヨハネ・パウロ2世への暗殺未遂事件を起こし終身刑を受けたメフメト・アリ・アジャは、 イタリアとトルコでの刑期合計25年を経て2006年1月12日に釈放されました。 出所時には世界中のメディアが注目し、 教皇暗殺未遂事件の余波が再燃しました。 釈放後は母国トルコへ帰国し、事件の真相や動機をめぐる議論が続きました。 冷戦下の国際情勢を背景にした政治的側面も含め、 国際社会の関心を集めた異例の釈放劇として知られています。
2006年 ローマ教皇 ヨハネ・パウロ2世 メフメト・アリ・アジャ
2009年

アメリカ合衆国への入国手続きに電子渡航認証システム(ESTA)が必須となる。

アメリカ合衆国入国に電子渡航認証システム(ESTA)が必須となった日。
2009年1月12日、米国への短期査証免除プログラム(VWP)参加国からの渡航者に対し、 電子渡航認証システム(ESTA)の申請が義務付けられました。 オンラインで事前審査を受けることで、入国審査の迅速化とセキュリティ強化を図る制度です。 対象は観光・ビジネス目的の90日以内滞在で、 未申請の場合は航空機への搭乗が許可されません。 米国入国手続きの在り方を大きく変えた重要な施策です。
2009年 アメリカ合衆国 電子渡航認証システム