靖康元年11月5日

靖康の変: 金の軍勢によって首府開封が陥落、北宋が滅亡し、皇帝欽宗と太上皇徽宗は金に連行。

1127年、金軍が首都開封を陥落させ、皇帝欽宗と太上皇徽宗を捕らえ、北宋が滅亡した事件。宋朝の歴史に大きな衝撃を与え、南宋成立への転機となった。
1127年、金朝の軍勢は北宋の首都開封を奇襲し、城壁を突破した。皇帝欽宗は捕虜として金に連行され、太上皇徽宗も同行を余儀なくされた。この事件は「靖康の変」と呼ばれ、北宋の滅亡を象徴する出来事となった。以降、宋朝は南方に遷都して南宋が成立し、中国史における勢力図が大きく塗り替えられた。徽宗と欽宗の捕囚は北宋文化の喪失を意味し、以後の南宋は異なる時代を歩むこととなった。
1127年 靖康 11月5日 靖康の変 開封 北宋 欽宗 太上皇 徽宗
正元元年11月26日

日本の皇室の系統が持明院統と大覚寺統に分裂する。

1260年、皇位継承を巡る対立により、持明院統と大覚寺統の二大皇統が確立し並立を始めた。
正元元年(1260年)11月26日、後嵯峨天皇の系譜を受け継ぐ持明院統と大覚寺統の二系統が正式に分裂した。両統は兄弟間の対立を背景に、それぞれ異なる皇位継承路線を主張した。鎌倉幕府も幕府内の派閥調整を図りながら両統の継承問題に介入した。以後、持明院統と大覚寺統は交互に天皇を擁立する慣例が生まれ、南北朝時代へと繋がる政治的基盤となった。皇統分裂は院政文化の複雑化と朝廷内の権力構造変化を象徴している。
1260年 正元 11月26日 持明院統 大覚寺統
1788年

コネチカット植民地がアメリカ合衆国憲法に批准し、アメリカ合衆国5番目の州・コネチカット州となる。

1788年、コネチカット植民地が憲法を批准し、第5番目の州としてアメリカ合衆国に加盟した。
1788年1月9日、コネチカット植民地はアメリカ合衆国憲法を批准して合衆国第5番目の州となった。憲法制定会議後の批准により、コネチカットは新しい連邦政府の権威を承認し、正式に加盟国の地位を得た。この批准は13植民地間の連携を強化し、連邦主義体制の発展を促進した。以降、州は連邦議会に代表を送り、初期の政治体制確立に寄与した。コネチカット州は工業化の先駆けとなり、アメリカ北部経済の中核を担う存在となった。
1788年 コネチカット植民地 アメリカ合衆国憲法 アメリカ合衆国 コネチカット州
1806年

イギリス海軍提督ホレーショ・ネルソンの、イギリスでは君主以外では初となる国葬が行われる。

1806年、トラファルガー海戦で戦死したネルソン提督に対し、イギリスでは君主以外で初めて国葬が執り行われた。
1806年1月9日、トラファルガーの海戦で英雄的な死を遂げたホレーショ・ネルソン提督に対し、ジョージ3世による国葬式典が開催された。君主以外の国葬はイギリス史上初の試みであり、ロンドン中が深い喪に服した。棺は海軍と陸軍の兵士に護衛されつつセント・ポール大聖堂へ運ばれ、参列者の数は数万人に及んだ。民衆や貴族が弔意を示し、新聞や詩歌にも彼の功績を称える記事が溢れた。ネルソンの英雄像は国民的なシンボルとなり、後の記念碑建立へと繋がった。
1806年 イギリス海軍 ホレーショ・ネルソン 国葬
1822年

ポルトガル王太子ペドロが、父王ジョアン6世の命に反し、ブラジル摂政としてブラジルに残ることを決める。

1822年、ポルトガル王太子ペドロはブラジル摂政として滞在を決断し、独立運動の端緒を開いた。
1822年1月9日、ポルトガル王太子ペドロは父ジョアン6世の帰国命令に背き、ブラジルに留まって摂政として統治することを宣言した。リオデジャネイロを拠点とした王家は、ブラジル経済の中心地として繁栄しており、ペドロの決断は植民地内の独立支持を一気に高めた。南米でのナショナリズムが昂揚する中、この行動は後の独立宣言(1822年9月7日)への道を切り開いた。ペドロは間もなくブラジル皇帝ペドロ1世として即位し、ポルトガル本国からの分離を確立する象徴となった。
1822年 ペドロ ジョアン6世
1861年

南北戦争: ミシシッピ州がアメリカ合衆国を脱退。

1861年、南北戦争の序盤でミシシッピ州が連邦からの脱退を宣言し、南部連合に加盟した。
1861年1月9日、ミシシッピ州はアメリカ合衆国からの脱退を正式に宣言し、南部連合(CSA)への加盟を表明した。サウスカロライナ州に続く2番目の脱退州であり、奴隷制度維持を主張する南部諸州の結束を強めた。脱退決議は州議会と住民投票によって承認され、連邦政府との対立は一層深刻化した。直後から兵員の動員と戦略拠点の確保が進み、ミシシッピ川流域を巡る戦略的拠点争奪戦が本格化した。
1861年 南北戦争 ミシシッピ州
1863年

南北戦争: アーカンソー・ポストの戦いが始まる。

1863年、南北戦争のアーカンソー・ポストの戦いが開始され、北軍が川上の要衝攻略を図った。
1863年1月9日、南北戦争におけるアーカンソー州のアーカンソー・ポスト要塞(フォート・ヒンドマン)を巡る戦いが始まった。北軍は水陸両面作戦を展開し、ミシシッピ川沿いの戦略的拠点を狙った。砲撃と上陸攻撃により要塞は数日にわたって包囲され、11日には降伏に追い込まれた。この勝利により北軍はミシシッピ川流域での支配を強化し、西部戦線の制圧を大きく前進させた。
アーカンソー・ポストの戦い
1878年

ウンベルト1世がイタリア王に即位。

1878年、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の死去を受け、サルデーニャ王ウンベルト1世がイタリア王に即位した。
1878年1月9日、サルデーニャ・ピエモンテ王ウンベルト1世は、父ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の崩御に伴いイタリア王位を継承した。戴冠式はローマで盛大に執り行われ、国民は新国王の即位を祝った。ウンベルト1世は産業振興や公共事業を重視し、鉄道網の拡充や植民地政策の推進を掲げた。彼の治世は近代化路線が特徴だが、1890年代には財政問題や政治対立も顕在化した。王国の団結力を試す時期となり、以後のイタリア政治に大きな影響を与えた。
1878年 ウンベルト1世 イタリア王
1879年

大蔵省商務局を設置。

1879年、日本政府は明治期の財政・産業政策強化を目的に大蔵省内に商務局を新設した。
1879年1月9日、明治政府は財政整備と産業振興を図るため、大蔵省内に商務局を設置した。商務局は貿易統制や商工業者支援、商業統計の作成などを担当し、商務省発展の基盤を築いた。欧米列強との不平等条約改正交渉に必要な貿易資料提供にも関与し、政府の外交政策を裏で支えた。国内産業の育成と市場拡大が進む中、商務局は経済近代化の立役者となった。
1879年 大蔵省
1885年

日本と李氏朝鮮の間で漢城条約が締結される。

1885年、日本と李氏朝鮮(朝鮮王朝)は漢城条約を締結し、外交関係の新たな枠組みを設けた。
1885年1月9日、日本政府と朝鮮王朝(李氏朝鮮)は漢城条約を締結し、両国間の外交関係を正式に再構築した。条約では互いに軍隊の撤退を約束し、両国都に公使館を設置することが定められた。これにより不安定だった日朝関係は一定の秩序を得て、商務や文化交流が拡大した。漢城条約はその後の日朝関係史における重要な転機となり、20世紀初頭の列強介入まで影響を及ぼした。
1885年 日本 李氏朝鮮 漢城条約
1891年

第一高等中学校講師の内村鑑三が教育勅語への拝礼をキリスト教徒の立場から拒否したため免職。(不敬事件)

内村鑑三がキリスト教徒の立場から教育勅語への拝礼を拒否し、免職となった不敬事件。
1891年1月9日、内村鑑三は第一高等中学校の講師を務めていた。 彼は教育勅語への拝礼を拒否し、不敬事件として注目を集めた。 当時の政府や教育界では国家神道が強く推進されており、拝礼は忠誠の証とされていた。 内村の行為は教職者としての職務義務と宗教的良心の対立を際立たせた。 最終的に内村は免職となり、キリスト教徒の立場から信仰の自由を主張し続けた。 この事件は日本における信教の自由と国家権力との関係を問う契機となった。
1891年 第一高等中学校 内村鑑三 教育勅語 キリスト教徒 不敬事件
1905年

サンクトペテルブルク冬宮殿前広場で、血の日曜日事件勃発。グレゴリウス暦1月22日。

1905年、サンクトペテルブルクで労働者の平和的デモが皇帝に請願中に武力鎮圧され、多数の死傷者を出した事件。
血の日曜日事件は1905年1月9日(旧暦)に起きた歴史的事件である。 サンクトペテルブルク冬宮前広場で農民や労働者らが皇帝ニコライ2世への請願書を携え平和的に行進した。 ところが皇帝親衛隊の発砲でデモ隊は弾圧され、多くの死傷者が出た。 この事件はロシア第一革命の引き金となり、政府への不満と民主化運動が一気に高まった。 翌グレゴリウス暦1月22日としても知られており、ロシア史におけるターニングポイントとなった。
1905年 サンクトペテルブルク 冬宮殿 血の日曜日事件 グレゴリウス暦 1月22日