1198年

インノケンティウス3世がローマ教皇に選出される。

中世カトリック教会の頂点に立つ教皇インノケンティウス3世が選出されました。
1198年1月8日、教皇選挙会議で枢機卿団はインノケンティウス3世を新たなローマ教皇に選出しました。 若くして教皇位に就いたインノケンティウス3世は、教皇権の強化を目指し、世俗権力との対立を厭わない姿勢で知られます。 在位中の彼は第四ラテラノ公会議を主宰し、教会法の整備や異端排除の規定を打ち立てました。 また、十字軍の再編や異教徒との交渉にも積極的に関与し、キリスト教世界の統一と拡大を推進しました。 彼の強固なリーダーシップは中世ヨーロッパにおける教皇権の絶頂を象徴すると評されています。
1198年 インノケンティウス3世
1297年

フランソワ・グリマルディらがモナコ要塞を占拠。モナコ公国が成立。

フランソワ・グリマルディ一族がモナコ要塞を占拠し、モナコ公国の礎を築きました。
1297年1月8日、ジェノバ貴族フランソワ・グリマルディらが秘密裏にモナコ岩山の要塞を乗っ取りました。 この占拠はグリマルディ家による長期の領有の始まりを示し、モナコ公国成立のきっかけとなりました。 地中海に面した戦略的要地を確保することで、グリマルディ家は政略結婚や同盟を通じて影響力を拡大しました。 その後もモナコは小規模ながら独立性を保ち続け、今日に至るまでヨーロッパ最古の公国として存在しています。 モナコ公国の起源は、この1297年の奇襲作戦に深く根ざしており、建国神話として語り継がれます。
1297年 フランソワ・グリマルディ モナコ公国
1499年

フランス王ルイ12世がブルターニュ女公アンヌと再婚。

フランス王ルイ12世がブルターニュ女公アンヌ・ド・ブルターニュと再婚しました。
1499年1月8日、フランス王ルイ12世は先代王ルネの嫡子なくしてブルターニュ女公となっていたアンヌ・ド・ブルターニュと再婚式を挙げました。 この結婚はブルターニュ公国をフランス王室領として統合するための政治的戦略でした。 アンヌは1491年以前から既にフランス王との婚姻問題を抱えており、ルイ12世との結婚によりブルターニュの独立性は大きく後退しました。 結婚に伴い署名された婚姻条約は両領地の統合と相続権を定め、ブルターニュはフランスの内政に深く結びつく結果となりました。 この出来事はフランス王国の中央集権強化の一端を担い、後の近世国家形成に影響を与えました。
1499年 ルイ12世 アンヌ
1790年

米大統領ジョージ・ワシントンが初の一般教書演説を行う。

ジョージ・ワシントン大統領が初めて一般教書演説を行い、国家運営の方針を示しました。
1790年1月8日、アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンが議会で初の一般教書演説を行いました。 この演説は、憲法に基づく大統領の立場から議会への年次報告を義務づける重要な慣行の始まりとなりました。 ワシントンは国内統一の必要性や連邦政府の財政問題、外交政策の基本方針などを示し、合衆国の安定した発展を訴えました。 一般教書演説は以後、アメリカ政治の定番行事として大統領権限の象徴的な一面を担っています。 ワシントンの初演説は、若い共和国が法の支配と分権のバランスを如何に追求するかを示す歴史的な瞬間でした。
1790年 ジョージ・ワシントン 一般教書演説
1806年

イギリス領植民地としてケープ植民地が発足。

南アフリカにおいてイギリス領ケープ植民地が正式に創設されました。
1806年1月8日、ナポレオン戦争中にイギリス海軍がオランダから奪取していたケープ植民地が正式にイギリス領として発足しました。 ケープ植民地はアフリカ南端の戦略的拠点として、イギリス東インド会社の補給地や海上交易路の重要な中継地となりました。 植民地化に伴い、ヨーロッパ系移民の流入や農業開発が進み、地域社会の構造に大きな変化をもたらしました。 また、先住民族との軋轢やボーア人移住の契機となるなど、南アフリカの歴史に長期的な影響を与えました。 ケープ植民地は1910年に南アフリカ連邦の構成国となるまで、イギリス帝国の一翼を担い続けました。
1806年 イギリス 植民地 ケープ植民地
1872年

仙台県が宮城県に改称。

廃藩置県後の1872年、仙台県が宮城県に改称され、近代日本の地方行政再編が進められた。
明治5年(1872年)1月8日、廃藩置県に伴い仙台県の名称が宮城県に改称された。 この改称は明治政府の地方行政再編の一環で行われた。 名称変更により県名の統一化と公文書の整理が図られた。 同年各地で同様の県名見直しが実施され、近代日本の行政体制が整備された。 今日の宮城県設立の起点として記憶されている。
1872年 仙台県 宮城県
1912年

アフリカ民族会議成立。

南アフリカでアフリカ民族会議(ANC)が設立され、人種差別撤廃と政治的権利獲得運動が始まった。
1912年1月8日、南アフリカでアフリカ民族会議(ANC)が設立された。 ヨハネスブルグで黒人知識人らが中心となり、人種差別撤廃と政治的権利獲得を目指した。 当初は植民地政府への請願団体として活動を開始した。 後にANCは南アフリカの解放運動を牽引し、ネルソン・マンデラらを輩出した。 現代南アフリカ共和国の民主化に決定的な役割を果たした政党の起源である。
1912年 アフリカ民族会議
1918年

ウィルソン米大統領が議会で第一次大戦和平と戦後世界についての「十四か条の平和原則」を発表。

ウィルソン大統領が戦後の国際秩序構築を目指す「十四か条の平和原則」を発表した、歴史的演説。
1918年1月8日、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンは、議会で第一次世界大戦の終結と戦後世界の指針を示す「十四か条の平和原則」を発表した。 この演説は国際連盟設立構想を含み、戦後国際秩序の構築に大きな影響を与えた。 自決権や自由貿易など民主主義的原則を掲げ、同盟国に支持を呼びかけた。 ヨーロッパ諸国は後にパリ講和会議でこの原則を部分的に採用した。 現代国際法や国際機関の思想的源流とされる。
1918年 ウィルソン 米大統領 第一次大戦 十四か条の平和原則
1926年

アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードがヒジャーズ国王に即位。

イブン=サウードがヒジャーズ王国の国王に即位し、サウジアラビア建国の礎を築いた。
1926年1月8日、アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードがヒジャーズ国王に即位した。 彼はサウード家を統率し、ヒジャーズ王国の統治権を確立した。 後にアラビア半島の統一へ向けた勢力拡大を進め、サウジアラビア王国建国の基礎を築いた。 宗教と部族を背景とした政治運営で中東情勢に大きな影響を与えた。 イブン=サウードはサウジ王朝の創始者として知られる。
1926年 アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード ヒジャーズ国王
1926年

バオ・ダイが阮朝最後の皇帝に即位。

阮朝最後の皇帝バオ・ダイが即位し、フランス保護領下のベトナム政治を象徴した。
1926年1月8日、阮朝最後の皇帝バオ・ダイが即位した。 フランス保護領インドシナの一部として形式的な統治権を承認された。 バオ・ダイの治世は近代化と植民地支配との駆け引きを象徴した。 彼は後にベトナム独立運動を巡る政局の中心人物としても活躍した。 阮朝の終焉とともに皇帝制は歴史の幕を閉じた。
1926年 バオ・ダイ 阮朝
1932年

桜田門事件: 陸軍観兵式の帰途、天皇の馬車が桜田門の警視庁前を通りかかったとき、群衆の中から手榴弾が投げられる昭和天皇暗殺未遂事件が発生。

1932年1月8日、桜田門の警視庁前で手榴弾が投げられ、昭和天皇暗殺未遂事件が発生しました。昭和天皇の御料車に向けて手榴弾が投じられたこの事件は、近代日本史における重大な暗殺未遂事件の一つです。
桜田門事件は1932年1月8日に東京・桜田門前で起こりました。陸軍観兵式の帰途にあった昭和天皇の乗った馬車に向けて、群集の中から手榴弾が投げ込まれました。投擲された手榴弾は爆発したものの、天皇や随行員には大きな被害はありませんでした。事件後、警備体制の強化や治安維持法の運用強化が図られました。犯人や背景には当時の政治的不満や過激思想の影響が指摘されています。日本政府は内外に事件対応を周知し、天皇護衛の重要性を再認識しました。
1932年 桜田門事件
1958年

沖縄立法院が、沖縄で日本の教育基本法等の教育諸法を適用する法律を公布。

1958年1月8日、沖縄立法院が日本の教育基本法など教育関連法を沖縄に適用する法律を公布しました。
戦後の米国統治下にあった沖縄で、立法院が独自に日本の教育制度導入を決定した画期的な法改正でした。教育基本法や学校教育法などを適用し、共通の学習指導要領が導入されました。これにより沖縄の学校教育は本土と同水準の内容となり、復帰運動の一環とも位置づけられました。現地の教育環境整備や教員養成の基盤強化が進められました。沖縄返還後の法的整合にも寄与した重要な節目とされています。
1958年 沖縄立法院 教育基本法