天平12年12月15日

聖武天皇の勅命で平城京(現在の奈良県奈良市)から恭仁宮(現在の京都府木津川市加茂)に都が遷される。

聖武天皇が平城京から恭仁宮に都を移した日本古代の政治的転換点。
741年、聖武天皇は度重なる災害や国家の安寧を祈念し、平城京から恭仁宮への遷都を勅命しました。恭仁宮は現在の京都府木津川市に位置し、仏教思想に基づく都造りが試みられた場所です。この遷都は政治的・宗教的意図が複合したもので、当時の国家運営に大きな影響を与えました。しかし人口や物資の集積が思わしくなかったため、4年後には再び平城京へ戻されました。古代日本の遷都史において重要なエピソードの一つとされています。
741年 12月15日 聖武天皇 平城京 奈良県 奈良市 恭仁宮 京都府 木津川市
1066年

ウェセックス王家出身のイングランド王エドワード懺悔王が死去し、賢人会議を経てハロルド・ゴドウィンソンがイングランド王位を引き継いだ。

エドワード懺悔王の死去を受け、賢人会議でハロルド・ゴドウィンソンがイングランド王に選出された。
1066年1月6日、ウェセックス王家出身のイングランド王エドワード懺悔王が崩御しました。独身で後継者がなかったため、賢人会議(ワイタン)が招集され、ハロルド・ゴドウィンソンが新王として選ばれました。この王位継承は王家と貴族間の権力闘争を如実に示し、ハロルド2世の即位はその後のノルマン・コンクエストへとつながる序章となります。選出されたハロルドの統治は短命に終わりますが、英国内の不安定さと国王権の変容を象徴する重要な事件でした。
1066年 ウェセックス王家 イングランド王 エドワード懺悔王 賢人会議 ハロルド・ゴドウィンソン
1205年

フィリップ・ヴォン・シュヴァーベンが再びローマ王に戴冠された。

フィリップ・フォン・シュヴァーベンがローマ王に再戴冠され、中世神聖ローマ帝国内の権力闘争が熾烈化した。
1205年1月6日、シュヴァーベン公フィリップが再びローマ王として戴冠されました。彼はホーエンシュタウフェン家出身で、先に皇位継承を巡る紛争の中でオットー4世と対立していました。再戴冠は支持を固めるための重要な政治的儀式であり、神聖ローマ帝国内の権力構造に影響を与えました。戴冠式は当時の主要な司教や諸侯が集う中で厳粛に執り行われ、フィリップの正当性を内外に示しました。この出来事は帝国内の分裂状態と中世ヨーロッパの複雑な封建関係を象徴しています。
1205年 フィリップ・ヴォン・シュヴァーベン ローマ王
1227年

1214年にブーヴィーヌの戦いでフランス王フィリップ尊厳王に敗れ、捕虜に取られていたフランドル伯フェランが解放された。

ブーヴィーヌの戦い後に捕虜となっていたフランドル伯フェランが解放された。
1214年のブーヴィーヌの戦いで敗北し、フランス王フィリップ尊厳王の捕虜となっていたフランドル伯フェランが、1227年1月6日に解放されました。この戦いはフランス王権の強化を象徴し、敗戦したフェランは13年間にわたり監禁されていました。解放は両国間の和解交渉の成果とされ、フランドル伯領の自治回復への第一歩となります。帰還後のフェランは再び領国の統治にあたり、フランドル地方の経済発展に寄与しました。中世フランス・フランドル関係史において重要な転機として位置づけられています。
1227年 ブーヴィーヌの戦い フランス王 フィリップ尊厳王 フランドル伯 フェラン
1286年

フィリップ4世がノートルダム大聖堂(ランス)で戴冠され、フランス王となった。

ノートルダム大聖堂(ランス)でフィリップ4世が戴冠し、フランス王権強化への一歩を刻んだ。
1286年1月6日、フィリップ4世がランスのノートルダム大聖堂で正式にフランス王として戴冠されました。“フェリペ美王”の異名を持つ彼は強力な王権を確立し、税制改革や中央集権化を推進したことで知られます。戴冠式はシャルルマーニュ以来の伝統を受け継ぐ儀礼であり、王としての権威を内外に示す重要な機会でした。即位後、フィリップ4世は教皇ボニファティウス8世との対立やテンプル騎士団の弾圧などを行い、絶大な政治力を発揮します。この戴冠はフランス王権強化の始まりを象徴する歴史的瞬間です。
1286年 フィリップ4世 ノートルダム大聖堂(ランス) フランス王
1321年

ネマニッチ朝の王族ステファン・デチャンスキがステファン・ウロシュ3世としてセルビア王に就任した。

ステファン・デチャンスキがセルビア王として即位し、ネマニッチ朝黄金期の礎を築いた。
1321年1月6日、ネマニッチ朝の王族ステファン・デチャンスキがセルビア王に即位し、ステファン・ウロシュ3世として統治を開始しました。幼少期に父王ミハイロ2世と対立し一時追放されていた彼は、父の死後に王位を継承します。統治初期からバルカン半島の情勢に積極的に介入し、1330年のヴェルバジュドの戦いでブルガリアに大勝利を収めました。彼の治世はネマニッチ朝の全盛期への布石となり、セルビア王国の国力を飛躍的に高めました。文化面でも教会建設や法整備を推進し、中世セルビアの発展に寄与しました。
1321年 ネマニッチ朝 ステファン・デチャンスキ セルビア王
1355年

ボヘミア王カレル1世がローマで戴冠され、カール4世として神聖ローマ皇帝に就任した。そして同時にロンバルディアの鉄王冠も授けられた。

ボヘミア王カレル1世がローマで戴冠され、カール4世として皇帝に就任した。
1355年1月6日、ボヘミア王カレル1世がローマで神聖ローマ皇帝として戴冠され、カール4世として即位しました。同時にロンバルディアの鉄王冠を授与され、皇帝としての象徴的権威を一層強化しました。彼は有能な統治者として知られ、後に発布する1356年の金印勅書(ゴールデン・ブル)で選帝侯の権限を定め、帝国行政の基盤を固めます。帝国都市や教会との調整を重視し、ドイツ地方の安定化に寄与しました。カール4世の戴冠はルクセンブルク家の全盛期の幕開けを象徴する出来事です。
1355年 ボヘミア王 カレル1世 神聖ローマ皇帝 ロンバルディアの鉄王冠
1449年

パレオロゴス家の王族コンスタンティノスがミストラスにて、コンスタンティノス11世パレオロゴスとして東ローマ皇帝に就任した。彼が最後のローマ皇帝となった。

最後の東ローマ皇帝、コンスタンティノス11世がミストラスで即位した。
1449年1月6日、パレオロゴス家の王族コンスタンティノスがミストラスにて東ローマ皇帝コンスタンティノス11世として即位しました。彼は名実ともに最後のローマ皇帝となり、オスマン帝国の脅威に備えるため領土回復や軍備増強に努めます。即位前はモレア地方(現在のギリシャ南部)を拠点に公国勢力を維持しており、皇位への登用は貴族会議の支持を得て実現しました。在位僅か数年で首都コンスタンティノープルはオスマン帝国に包囲され、1453年の陥落で帝国は滅亡します。コンスタンティノス11世の治世は中世ビザンツ帝国の最終章を飾る歴史的瞬間です。
1449年 パレオロゴス家 コンスタンティノス ミストラス 東ローマ皇帝
慶長14年12月12日

有馬晴信がポルトガル船マードレ・デ・デウス号を焼き討ち。岡本大八事件の発端の一つとなる。

有馬晴信がポルトガル船マードレ・デ・デウス号を焼き討ちした事件。
1610年1月6日(慶長14年12月12日)、キリシタン大名の有馬晴信が長崎に停泊中のポルトガル船マードレ・デ・デウス号を焼き討ちしました。この行動は幕府による南蛮貿易の統制強化とキリスト教弾圧の一環とされ、同時に岡本大八事件の遠因ともなります。焼き討ちにより、貴重な南蛮品やキリシタン文書が失われるなど大きな物的損害が生じました。事件は有馬氏内部の権力争いにも影響し、後の領国内の混乱を招く結果となります。日本とポルトガル間の交易史や禁教政策の転換点として注目される出来事です。
1610年 慶長 12月12日 有馬晴信 岡本大八事件
1649年

イングランド内戦:長期議会が国王チャールズ1世の裁判を行うことを議決。

長期議会がチャールズ1世の裁判を決議し、英国王政の一大転換を引き起こした。
1649年1月6日、イングランド内戦中の長期議会(ロング・パーラメント)が国王チャールズ1世を裁判にかけることを正式に議決しました。これは権力の集中を図るチャールズ1世に対する議会派の反発が頂点に達した結果であり、王権神授説への挑戦でもありました。議決を受けて特別法廷が設置され、同年1月30日にはチャールズ1世の処刑が執行される運びとなります。この一連の出来事は王政の否定と共和政(コモンウェルス)の成立を導き、近代英国の政治体制を大きく変革しました。歴史上初めて君主が自国議会によって裁かれるという衝撃的な事件として記憶されています。
1649年 イングランド内戦 長期議会 チャールズ1世
1838年

サミュエル・モールス、アルフレッド・ヴェイルらが初めて電信の実験に成功。

サミュエル・モールスとアルフレッド・ヴェイルが世界初の電信実験に成功した日です。 電信技術の実用化に大きく貢献し、通信革命の端緒となりました。
1838年1月6日、発明家サミュエル・モールスと技術者アルフレッド・ヴェイルが初めて電信機を用いた実験を行い、メッセージの送受信に成功しました。 この実験ではワイヤを介して電気信号を送り、モールス符号による通信を実証しました。 モールス符号は短点と長点を組み合わせて文字を表現する方式で、その簡便さから広く採用されました。 当時、通信は主に馬車や船舶に頼っており、電信の実用化は情報伝達速度を飛躍的に高めるものでした。 この成果は後の大陸横断電信線や国際電信網の敷設へとつながり、近代通信社会の基盤を築きました。
1838年 サミュエル・モールス アルフレッド・ヴェイル 電信
1842年

イギリスのカーブル撤退。アフガニスタンに侵攻したインドのイギリス軍に対するアフガン人の抵抗に、イギリス軍がアクバル=ハーンと協議、撤退を開始。しかし途中で攻撃を受け、4500人のイギリス軍は全滅。

イギリス軍がアフガニスタンから撤退を開始しましたが、途中で襲撃を受け全滅しました。 帝国主義の脆さを示す悲劇的な事件です。
1842年1月6日、インド帝国を拠点とするイギリス軍はアフガニスタンの首都カーブルからの撤退を開始しました。 撤退はアクバル・ハーン率いる地元勢力との協議の上で決定されましたが、途中でアフガン人の襲撃を受けました。 約4500人のイギリス軍とその随伴部隊は寒冷地での疲労や補給不足の中、激しい攻撃を受け全滅状態となりました。 この事件は第一次英アフガン戦争の終章にあたり、イギリス軍の短期間での敗北として歴史に刻まれています。 クリミア戦争時代以前の帝国主義的遠征の困難さを象徴し、軍事戦略の教訓ともなりました。
1842年 イギリス カーブル アフガニスタン インド アフガン人 イギリス軍