1066年

アングロサクソン人貴族ハロルド・ゴドウィンソンがハロルド2世としてイングランド王位に就く。

1066年1月5日、アングロサクソン人ハロルド・ゴドウィンソンがハロルド2世としてイングランド王に即位した。
1066年1月5日、エドワード懺悔王の死去を受け、ウエセックス伯ハロルド・ゴドウィンソンがイングランド王に選出された。 彼はハロルド2世としてウェストミンスター大寺院で戴冠式を行い、アングロサクソン朝最後の王となった。 即位直後からノルマン公ウィリアムとの王位継承を巡る緊張が高まり、後のノルマン・コンクエストの引き金となった。 同年10月14日のヘイスティングズの戦いでハロルド2世は敗北・戦死し、イングランド王位はウィリアム1世へと移った。 この一連の出来事は封建制度の導入やフランス文化の影響を深め、中世イギリス史の大きな転換点となった。
1066年 アングロサクソン人 ハロルド・ゴドウィンソン イングランド王位
1757年

ロベール=フランソワ・ダミアンがフランス王ルイ15世の暗殺未遂事件を起こす。

1757年1月5日、ロベール=フランソワ・ダミアンがヴェルサイユ宮殿でルイ15世暗殺を試みた。
1757年1月5日、元召使のロベール=フランソワ・ダミアンはヴェルサイユ宮殿に侵入し、ルイ15世に小刀で襲いかかった。 浅い負傷にとどまった王は無事であったが、ダミアンは直ちに逮捕され、過酷な拷問を受けた。 彼は単独犯と断定され、宗教的偏見に基づく動機があったとされる。 同年3月、ダミアンは四つ裂きの公開刑に処され、その残虐な執行方法は当時のフランス社会に衝撃を与えた。 この事件は絶対王政期の権威維持と治安政策の傾向を如実に示すものとして歴史に残っている。
1757年 ロベール=フランソワ・ダミアン ルイ15世 暗殺
1895年

ドレフュス事件: ドイツのスパイとして有罪判決が下ったフランス陸軍大尉アルフレッド・ドレフュスが、不名誉除隊の上でデビルズ島に終身禁錮となる。

1895年1月5日、ドレフュス事件でアルフレッド・ドレフュスがスパイ容疑で有罪となりデビルズ島へ流刑された。
1895年1月5日、ユダヤ系フランス陸軍大尉アルフレッド・ドレフュスはドイツへのスパイ容疑で有罪判決を受け、不名誉除隊のうえデビルズ島に終身禁錮された。 反ユダヤ主義的世論が司法判断に影響を与えたとされ、冤罪であるとの批判が国内外で高まった。 妻ルミルドや支持者たちの粘り強い救援活動により、真相究明へ向けた世論運動が活発化した。 エミール・ゾラの『私は弾劾する』は事件を注目させ、第三共和政の政治的対立を大きく燃え上がらせた。 最終的に1906年、ドレフュスは無罪放免され名誉を回復し、フランスの司法制度改革に大きな影響を与えた。
1895年 ドレフュス事件 フランス陸軍 アルフレッド・ドレフュス 不名誉除隊 デビルズ島 禁錮
1919年

ドイツ労働者党(国家社会主義ドイツ労働者党〈ナチス〉の前身)結成。

1919年1月5日、ドイツ労働者党がミュンヘンで結成されました。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の前身として知られる重要な政治組織の始まりです。
第一次世界大戦後の混乱期、ドイツのミュンヘンで小規模政党として発足したドイツ労働者党は、労働者層を中心に支持を集めました。1920年にアドルフ・ヒトラーが入党し、演説と宣伝を通じて急速に影響力を拡大します。1921年には国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)へと改称され、組織はナチズムの中核として機能し始めました。この党はワイマール共和政の不安定化を助長し、1933年に政権を獲得するきっかけを作りました。歴史的には、ナチ党結成への重要な一歩と評価されています。
ドイツ労働者党 国家社会主義ドイツ労働者党
1925年

ネリー・ロスがワイオミング州知事に就任。初の女性州知事。

1925年1月5日、ネリー・ロスがワイオミング州知事に就任し、アメリカ初の女性州知事となりました。
アメリカ西部・ワイオミング州出身のネリー・テイラー・ロスは、州下院議員や女性参政権運動で活動した後、1924年の選挙で勝利。1925年1月5日に知事に就任し、初の女性州知事の地位を手にしました。ロスは教育改革や道路整備など多岐にわたる政策を推進し、女性の政治参加拡大に道を開きました。彼女の成功は全米の女性政治家に大きな勇気を与え、以降の女性の公職進出を後押ししました。
1925年 ネリー・ロス ワイオミング州
1939年

平沼騏一郎内閣が発足。

1939年1月5日、平沼騏一郎内閣が発足し、第35代内閣総理大臣として平沼騏一郎が就任しました。
平沼騏一郎は1939年1月5日に内閣を組織し、外交・軍事両面で厳しい状況にあった日本を率いました。彼の内閣は第二次世界大戦が迫る中で大陸進出を推進する軍部と調整を図り、日独伊三国同盟締結を目指しました。しかし、政治的混乱や国際情勢の悪化により短命内閣となり、同年8月に退陣しました。平沼内閣の動きは戦時体制への転換期を象徴しています。
1939年 平沼騏一郎内閣
1950年

日本人の海外渡航手続きがGHQから日本政府に移管。

1950年1月5日、日本人の海外渡航手続きが米軍政府(GHQ)から日本政府に移管され、渡航管理権が回復されました。
第二次世界大戦後、日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の統治下に置かれていました。GHQは渡航制限を行い、国際交流を厳しく管理していましたが、1950年1月5日、日本政府が海外渡航手続きを正式に引き継ぎました。これによりパスポート発給や渡航許可などが日本国内で行われるようになり、国際関係の正常化と国民の自由な移動が促進されました。サンフランシスコ講和条約への道筋とも連動した重要な一歩とされています。
1950年 GHQ
1968年

チェコスロバキアで共産党第一書記にアレクサンデル・ドゥプチェクが就任。「プラハの春」が始まる。

1968年1月5日、チェコスロバキア共産党第一書記にドゥプチェクが就任し『プラハの春』が始まった日。
アレクサンデル・ドゥプチェクは『人間の顔をした社会主義』を掲げ、政治・言論の自由化を推進しました。 検閲緩和や経済改革、民主化の動きが活発化し、国民から大きな支持を集めました。 報道や文化活動の自由が拡大し、知識人や学生たちの期待が高まりました。 しかしこの改革路線はソ連や他のワルシャワ条約機構諸国に警戒され、同年8月の軍事介入によって終焉を迎えます。 プラハの春は冷戦期における東欧民主化運動の代表的な出来事として国際的に知られています。
1968年 チェコスロバキア 共産党 アレクサンデル・ドゥプチェク プラハの春
1970年

公明党の竹入義勝委員長と矢野絢也書記長が、前年からの創価学会を含めた言論出版妨害事件をめぐって記者会見を行い、出版妨害の事実を全面否定。

1970年1月5日、公明党の竹入義勝委員長らが言論出版妨害疑惑を否定した日。
前年から続いていた創価学会をめぐる言論出版妨害事件の問題で、公明党はマスコミの批判を受けていました。 この日、竹入義勝委員長と矢野絢也書記長は記者会見を開き、出版妨害の事実を全面的に否定しました。 会見では党の立場や対応策が説明され、疑惑の払拭と情報公開の姿勢が強調されました。 政治団体と言論の自由をめぐる議論に一石を投じた出来事として注目されました。 以後、出版妨害問題は政治と宗教の関係や表現の自由論争の一面として語られています。
1970年 公明党 竹入義勝 矢野絢也 創価学会 言論出版妨害事件
1974年

「日中貿易協定」調印。

1974年1月5日、日中貿易協定への調印が行われた日。
この協定は1972年の国交正常化を経て、両国の貿易関係を法的に基盤づける初の包括的条約でした。 工業製品や農産物の相互輸出入規定、関税率、貿易拡大の枠組みが定められました。 日本企業は中国市場への進出を加速させ、中国側も経済発展の原動力として歓迎しました。 締結後、両国間の貿易額は急速に拡大し、東アジア経済圏の形成に寄与しました。 その後の経済協力や技術交流の基礎となり、現在の緊密な経済関係へとつながりました。
1974年 日中貿易協定
1976年

民主カンボジアが国名を「民主カンプチア」に変更。

1976年1月5日、民主カンボジアが国名を『民主カンプチア』に変更した日。
当時のカンボジア政権はフランス語に基づく表記から現地音に近い『カンプチア』への転換を行いました。 この名称変更は植民地時代の影響を排除し、民族主義的なアイデンティティを強調する意図がありました。 英語表記でも『Kampuchea』が公用となり、外交文書や国際会議で使用されました。 同政権は教育やプロパガンダを通じて新名称の周知を図り、国内外にアピールしました。 この変更はカンボジアの歴史的・文化的自立を示す象徴的な政策として位置づけられます。
1976年 民主カンボジア
1982年

韓国で独立以来34年ぶりに夜間外出禁止令が解除。

1982年1月5日、韓国政府は独立以来34年ぶりに夜間外出禁止令を解除。 市民の自由な生活が大きく広がりました。
韓国政府は1948年の独立時に非常事態宣言に伴う夜間外出禁止令を発出していました。 1982年1月5日、この長い規制が解除され、市民は夜間でも自由に外出できるようになりました。 解除は軍事政権下での治安緩和を示す重要な政策転換と位置付けられました。 社会活動や経済活動が夜間帯にも活発化し、都市のナイトライフが発展する契機となりました。 市民の人権回復や民主化運動への追い風ともなった歴史的な出来事です。
1982年 韓国 夜間外出禁止令