1066年

アングロサクソン人貴族ハロルド・ゴドウィンソンがハロルド2世としてイングランド王位に就く。

1066年1月5日、アングロサクソン人ハロルド・ゴドウィンソンがハロルド2世としてイングランド王に即位した。
1066年1月5日、エドワード懺悔王の死去を受け、ウエセックス伯ハロルド・ゴドウィンソンがイングランド王に選出された。 彼はハロルド2世としてウェストミンスター大寺院で戴冠式を行い、アングロサクソン朝最後の王となった。 即位直後からノルマン公ウィリアムとの王位継承を巡る緊張が高まり、後のノルマン・コンクエストの引き金となった。 同年10月14日のヘイスティングズの戦いでハロルド2世は敗北・戦死し、イングランド王位はウィリアム1世へと移った。 この一連の出来事は封建制度の導入やフランス文化の影響を深め、中世イギリス史の大きな転換点となった。
1066年 アングロサクソン人 ハロルド・ゴドウィンソン イングランド王位
1477年

ブルゴーニュ戦争: ナンシーの戦い。ブルゴーニュ公シャルルが戦死し、ブルゴーニュ戦争が終結、ブルゴーニュ公国が消滅。

1477年1月5日、ナンシーの戦いでブルゴーニュ公シャルルが戦死し、ブルゴーニュ公国が消滅した。
ブルゴーニュ戦争はフランス王国と神聖ローマ帝国・スイス連邦がブルゴーニュ公国支配を巡って争った一連の紛争である。 1477年1月5日、ロレーヌ公レニー率いる連合軍はナンシーでブルゴーニュ公シャルルと決戦を行い、公は戦死した。 この敗北によりブルゴーニュ軍は壊滅的打撃を受け、ブルゴーニュ公国は実質的に消滅した。 領土はフランス王国と神聖ローマ帝国に分割され、中世ヨーロッパの勢力均衡は大きく変動した。 シャルルの最期は封建大公国時代の終焉を象徴し、フランス中央集権国家の形成を加速させた。
1477年 ブルゴーニュ戦争 ナンシーの戦い ブルゴーニュ公 シャルル ブルゴーニュ戦争 ブルゴーニュ公国
1649年

ルイ十四世がパリから脱出。同日、三十年戦争の勇者コンデ親王に指令が出され、パリ市包囲開始。

1649年1月5日、フロンドの乱期にルイ14世がパリを逃れ、グラン・コンデ率いる王党派がパリ包囲を開始した。
1648年から続くフロンドの乱は貴族やパリ市民の反乱による内乱で、若きルイ14世は安全のためパリを離れる必要に迫られていた。 1649年1月5日、王太子ルイ14世は宮廷と共にパリを脱出し、サン・ジェルマンへの退避を図った。 同日、三十年戦争で名声を博したルイ2世・グラン・コンデにパリ包囲の指令が下され、王党派は反乱勢力への反撃を本格化させた。 コンデ率いる軍は包囲陣を築いて食糧や支援物資の遮断を行い、反乱派を次第に追い詰めていった。 この包囲戦は最終的にフロンド派の衰退と王権強化への転換点となり、ルイ14世の絶対王政確立への足がかりとなった。
1649年 ルイ十四世 パリ 三十年戦争 コンデ親王
1757年

ロベール=フランソワ・ダミアンがフランス王ルイ15世の暗殺未遂事件を起こす。

1757年1月5日、ロベール=フランソワ・ダミアンがヴェルサイユ宮殿でルイ15世暗殺を試みた。
1757年1月5日、元召使のロベール=フランソワ・ダミアンはヴェルサイユ宮殿に侵入し、ルイ15世に小刀で襲いかかった。 浅い負傷にとどまった王は無事であったが、ダミアンは直ちに逮捕され、過酷な拷問を受けた。 彼は単独犯と断定され、宗教的偏見に基づく動機があったとされる。 同年3月、ダミアンは四つ裂きの公開刑に処され、その残虐な執行方法は当時のフランス社会に衝撃を与えた。 この事件は絶対王政期の権威維持と治安政策の傾向を如実に示すものとして歴史に残っている。
1757年 ロベール=フランソワ・ダミアン ルイ15世 暗殺
1895年

ドレフュス事件: ドイツのスパイとして有罪判決が下ったフランス陸軍大尉アルフレッド・ドレフュスが、不名誉除隊の上でデビルズ島に終身禁錮となる。

1895年1月5日、ドレフュス事件でアルフレッド・ドレフュスがスパイ容疑で有罪となりデビルズ島へ流刑された。
1895年1月5日、ユダヤ系フランス陸軍大尉アルフレッド・ドレフュスはドイツへのスパイ容疑で有罪判決を受け、不名誉除隊のうえデビルズ島に終身禁錮された。 反ユダヤ主義的世論が司法判断に影響を与えたとされ、冤罪であるとの批判が国内外で高まった。 妻ルミルドや支持者たちの粘り強い救援活動により、真相究明へ向けた世論運動が活発化した。 エミール・ゾラの『私は弾劾する』は事件を注目させ、第三共和政の政治的対立を大きく燃え上がらせた。 最終的に1906年、ドレフュスは無罪放免され名誉を回復し、フランスの司法制度改革に大きな影響を与えた。
1895年 ドレフュス事件 フランス陸軍 アルフレッド・ドレフュス 不名誉除隊 デビルズ島 禁錮
1904年

大阪朝日新聞に「天声人語」が登場。

1904年1月5日、大阪朝日新聞に「天声人語」が初掲載された。
1904年1月5日、大阪朝日新聞(現・朝日新聞)にて「天声人語」が初めて掲載された。 タイトルは論語の一節「天声人を以て語らしむ」に由来し、短いトピックス形式で時事問題を論じるスタイルが特徴である。 創刊当初から読みやすい文体と鋭い視点が読者の支持を受け、全国の新聞に影響を与えた。 戦中・戦後の検閲や表現規制の時代を経ても継続的に発行される数少ないコラムとして定着した。 現在も朝刊一面に掲載され、学生や一般読者の学習・討論の題材として広く活用されている。
1904年 大阪朝日新聞 天声人語
1905年

日露戦争: 日本軍の乃木希典大将とロシア軍のステッセリ中将が水師営で会見。

1905年1月5日、日露戦争中に乃木希典大将とロシア軍ステッセリ中将が水師営で会見した。
1905年1月5日、日露戦争の戦線で日本軍宿営地の水師営において、乃木希典大将とロシア軍ステッセリ中将が停戦協議を行うための会見を開いた。 乃木大将はロシア軍の降伏条件を提示し、ステッセリは一定の猶予を得るための交渉に応じる姿勢を示した。 この会見は両軍間での非公式交渉の先駆けとして、のちのポーツマス条約締結への流れを生んだ。 両軍は負傷兵の交換や捕虜の人道的扱いについて了解を取り付けたとされる。 この歴史的会談は国際社会における日本の交渉力を示す象徴的な出来事となった。
1905年 日露戦争 乃木希典 ロシア軍 ステッセリ 水師営
1914年

フォード・モーターが従業員の8時間労働と日給5ドルの最低賃金導入を発表。

1914年1月5日、フォード・モーターが従業員に8時間労働制と日給5ドルの最低賃金を導入すると発表した。
1914年1月5日、米国の自動車メーカーであるフォード・モーターは従業員に対し8時間労働制と日給5ドルの最低賃金制度を導入すると発表した。 当時の米国産業界では長時間労働・低賃金が一般的であったため、この発表は労働改革の先駆けとされた。 高賃金と短時間労働により社員の定着率が向上し、熟練工の確保に貢献した。 生産性の向上とコスト削減が可能となった結果、自動車価格の引き下げが進み大衆市場への普及を加速させた。 フォードの取り組みは他企業にも影響を与え、福祉資本主義と呼ばれる新たな企業経営モデルの端緒となった。
1914年 フォード・モーター 8時間労働 最低賃金
1914年

定員の5倍を乗せていた駿河湾汽船「愛鷹丸」が 西南の激しい風に倒され転覆沈没した。

1914年1月5日、駿河湾汽船「愛鷹丸」が定員の5倍の乗客を乗せたまま転覆・沈没した。
1914年1月5日、駿河湾汽船「愛鷹丸」は定員の5倍もの乗客を乗せて航行中、西南からの突風に煽られて転覆・沈没した。 過積載により船体の安定性が大きく損なわれ、甲板上の乗客は海中に投げ出されたという。 当時の沿岸警備や救助体制は未整備であったため、救命具や救援船の到着が遅れ、多数の犠牲者が出たと伝えられている。 この事故を契機に船舶の積載基準や沿岸警備体制の見直しが進められるようになった。 海難事故対策強化の必要性を広く認識させる事件として、運輸行政にも影響を与えた。
定員
1919年

スパルタクス団蜂起。

1919年1月5日、ドイツでスパルタクス団がベルリンで蜂起し、革命運動が激化した。
1919年1月5日、第一次世界大戦後のドイツにおいて、左派革命組織スパルタクス団がベルリンで武装蜂起を試みた。 ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトが指導する同派は、労働者評議会による社会主義国家の樹立を目指していた。 ヴァイマル共和国政府はフライコールを動員し、数日で蜂起を鎮圧、多くの指導者が逮捕または射殺された。 この鎮圧はドイツ政治の右傾化を促し、民主主義と共産主義の対立が激化する契機となった。 スパルタクス団蜂起はその後のヴァイマル政治史に深い影響を及ぼし、国際的にも大きな注目を集めた。
1919年 スパルタクス団蜂起
1919年

ドイツ労働者党(国家社会主義ドイツ労働者党〈ナチス〉の前身)結成。

1919年1月5日、ドイツ労働者党がミュンヘンで結成されました。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の前身として知られる重要な政治組織の始まりです。
第一次世界大戦後の混乱期、ドイツのミュンヘンで小規模政党として発足したドイツ労働者党は、労働者層を中心に支持を集めました。1920年にアドルフ・ヒトラーが入党し、演説と宣伝を通じて急速に影響力を拡大します。1921年には国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)へと改称され、組織はナチズムの中核として機能し始めました。この党はワイマール共和政の不安定化を助長し、1933年に政権を獲得するきっかけを作りました。歴史的には、ナチ党結成への重要な一歩と評価されています。
ドイツ労働者党 国家社会主義ドイツ労働者党
1925年

ネリー・ロスがワイオミング州知事に就任。初の女性州知事。

1925年1月5日、ネリー・ロスがワイオミング州知事に就任し、アメリカ初の女性州知事となりました。
アメリカ西部・ワイオミング州出身のネリー・テイラー・ロスは、州下院議員や女性参政権運動で活動した後、1924年の選挙で勝利。1925年1月5日に知事に就任し、初の女性州知事の地位を手にしました。ロスは教育改革や道路整備など多岐にわたる政策を推進し、女性の政治参加拡大に道を開きました。彼女の成功は全米の女性政治家に大きな勇気を与え、以降の女性の公職進出を後押ししました。
1925年 ネリー・ロス ワイオミング州