1521年

ローマ教皇レオ10世が回勅『デチェト・ロマヌム・ポンティフィチェム』を発行し、マルティン・ルターをカトリック教会から破門した。

1521年、教皇レオ10世が回勅を発行してマルティン・ルターを破門。 宗教改革に大きな影響を与えた歴史的事件。
1521年1月3日、ローマ教皇レオ10世は回勅『デチェト・ロマヌム・ポンティフィチェム』を発行し、マルティン・ルターを正式に破門しました。 この破門状は、ルターの贖宥状(免罪符)批判など教会批判を決定的に否定する内容でした。 当時のカトリック教会は宗教権威を守るために強硬な措置を選択し、ルターは異端と宣告されました。 この出来事は宗教改革をさらに加速させ、プロテスタントとカトリックの分裂を深める契機となりました。 ルター派の信者たちはその後も議論を続け、ヨーロッパの宗教地図を一変させていきました。
1521年 レオ10世 回勅 マルティン・ルター 破門
1833年

イギリスがジェームス・オンスロー提督の乗艦する軍艦HMS Clioをフォークランド諸島に派遣。

1833年、イギリス海軍がHMS Clioをフォークランド諸島に派遣し、実効支配を確立。 領有権問題の重要な局面となった。
1833年1月3日、ジェームス・オンスロー提督率いるHMS Clioがフォークランド諸島に派遣されました。 イギリス政府は武力行使を最小限に抑えつつ、島のアルゼンチン系当局に降伏を要求。 守備隊は抵抗を断念し、イギリスはフォークランドの行政管理を再構築しました。 この事件はアルゼンチンとイギリスとの領有権争いを激化させ、後の紛争の遠因ともなりました。 フォークランド諸島は以後、英連邦の海外領土として現在に至るまで統治が続いています。
1833年 イギリス HMS Clio フォークランド諸島
1848年

ジョセフ・ジェンキンズ・ロバーツがリベリア共和国の初代大統領に就任。

1848年、ジョセフ・J・ロバーツがリベリア共和国初代大統領に就任。 アフリカ初の共和制国家を導いた。
1848年1月3日、元アメリカ解放黒人協会メンバーのジョセフ・ジェンキンズ・ロバーツが初代大統領に就任。 リベリア共和国は1830年代に自由黒人移住地として成立し、1847年に正式に独立を宣言しました。 ロバーツは就任後、首都モンロビアの都市計画や政府機構の整備に注力。 彼の積極的な外交努力により、イギリス、フランス、アメリカなどから相次いで国交承認を獲得しました。 ロバーツ政権は国家建設の基盤を築き、リベリアの政治・社会制度の発展に大きな影響を与えました。
1848年 ジョセフ・ジェンキンズ・ロバーツ リベリア共和国
慶応3年12月9日

王政復古の大号令。

1868年、王政復古の大号令が出され、幕府の権威が廃止されて朝廷中心の体制に移行。 明治維新の重要な一歩となった。
1868年1月3日(慶応3年12月9日)、王政復古の大号令が発布され、徳川幕府の権限が正式に廃止されました。 五摂家や公卿には参与・議定などの役職が与えられ、天皇親政による中央集権体制が確立。 号令の背後には薩摩、長州などの維新志士たちの画策があり、旧幕府体制の解体を法的に裏付けました。 江戸は東京と改称され、廃藩置県や近代的軍隊の編制へ向けた議論が本格化しました。 これにより日本は封建体制から近代国家へと転換し、西洋列強に対抗する道を歩み始めました。
1868年 慶応 12月9日 王政復古の大号令
1935年

常設国際司法裁判所判事、安達峰一郎博士の葬儀がハーグで挙行。

常設国際司法裁判所判事、安達峰一郎博士の葬儀がハーグで行われた。
1935年1月3日、常設国際司法裁判所(PCIJ)の日本人判事として活躍した安達峰一郎博士の葬儀がオランダ・ハーグで執り行われました。安達博士は国際法の専門家として知られ、同裁判所設立期から判事を務めた外交法学者でした。葬儀には各国の法曹関係者や外交官が参列し、国際司法協調への貢献を讃えました。日本人として国際機関で高い評価を受けた数少ない人物の一人であり、その業績は後の法学研究や国際裁判に大きな影響を与えました。
1935年 常設国際司法裁判所 判事 安達峰一郎
1958年

イギリス連邦内の自治国として西インド連邦が成立。

西インド連邦がイギリス連邦内の自治国として成立した。
1958年1月3日、西インド連邦(West Indies Federation)がイギリス連邦内の自治国として公式に成立しました。カリブ海地域の10のイギリス領植民地が連合し、単一の連邦政府を樹立した歴史的瞬間です。連邦議会はバルバドスに設置され、域内の経済協力や外交政策の調整を図りました。しかし加盟国間の利害対立や経済格差など課題も多く、連邦は1962年に解体されることになります。それでもこの試みはカリブ諸国の地域統合の先駆けとして評価されています。
1958年 イギリス連邦 西インド連邦
1959年

アラスカ準州が昇格して、アメリカ合衆国49番目の州・アラスカ州となる。

アラスカ準州がアメリカ合衆国49番目の州に昇格した。
1959年1月3日、アメリカ合衆国のアラスカ準州が正式に州として昇格し、第49番目の州『アラスカ州』となりました。広大な面積と豊かな天然資源を持つ地域の州化は、連邦政府の重要な政策目標の一つでした。州昇格により政治的な代表権が拡大し、連邦議会への議席も確保されました。州都アンカレッジを中心に、経済発展やインフラ整備が本格化しました。アラスカ州の誕生は米国の領土拡大と多様性を象徴する歴史的事件です。
1959年 アラスカ準州 アラスカ州
1961年

アメリカ合衆国がキューバと国交断絶。

米国がカストロ政権を認めずキューバと国交を断絶し、冷戦下の緊張が一段と高まった。
1961年1月3日、ジョン・F・ケネディ大統領の決定によりアメリカ合衆国はキューバとの外交関係を断絶しました。この措置は1959年のフィデル・カストロ政権樹立後、両国の対立が激化した結果です。米国はカストロ政権の社会主義化とソ連との結びつきを問題視し、経済制裁と外交隔絶を強めました。国交断絶により大使館は閉鎖され、公的な外交ルートは翌2015年まで復活しませんでした。この決定はキューバ危機(1962年)にも影響を及ぼし、米ソ両国の軍事的緊張をさらに高めました。国交正常化は54年後のバラク・オバマ政権下で実現し、歴史的分断の終焉を迎えました。
1961年 アメリカ合衆国 キューバ
1962年

ローマ教皇ヨハネ23世がフィデル・カストロを破門。

教皇ヨハネ23世がフィデル・カストロをカトリック教会から破門し、宗教弾圧への抗議を示しました。
1962年1月3日、教皇ヨハネ23世はフィデル・カストロをカトリック教会から正式に破門しました。カストロ政権が私有財産の没収や宗教活動の制限を進めたことに対する措置です。教皇庁は信者の権利侵害に懸念を示し、破門を通じて政権への圧力を強めようとしました。政治と宗教の対立が深まる中、この発表は冷戦下の国際的議論を一層かき立てました。破門の効力は教会法に基づき、カストロ自身は同措置を公式に認めず、実際の影響は限定的でした。しかし歴史的には教会と国家の緊張関係を象徴する出来事として記憶されています。
1962年 ヨハネ23世 フィデル・カストロ
1964年

西口彰事件の犯人が逮捕される。

全国を震撼させた西口彰事件の容疑者が逮捕され、長期の逃走劇に終止符が打たれました。
1964年1月3日、複数の強盗や殺人事件を起こした『西口彰事件』の容疑者が警察に逮捕されました。西口彰は前月から全国で凶悪犯罪を繰り返し、各地で世間に大きな恐怖をもたらしていました。警察は大規模な捜査網を展開し、目撃情報や指紋照合などの結果に基づいて特定に成功しました。逮捕場所やその後の取り調べは厳重に行われ、被害者遺族やマスコミの注目は高まりました。この事件の解決により、当時の治安維持対策や犯罪捜査手法の見直しが進められました。西口事件は戦後日本における代表的な凶悪事件の一つとして、犯罪史に記録されています。
1964年 西口彰事件 逮捕
1976年

経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約が発効する。

国連の『経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約』が発効し、人権保障の枠組みが強化されました。
1976年1月3日、国際連合総会で採択された『経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(ICESCR)』が発効しました。規約は労働権、社会保障、教育、文化参加など幅広い社会権を国際法上で初めて明文化したものです。発効には所定の批准国数の達成が必要で、批准手続きを完了した国が最低必要数に達したことで実現しました。この規約は『市民的及び政治的権利に関する国際規約(ICCPR)』と合わせて『国際人権規約』を構成し、人権保障を包括的に推進しました。各国は規約に基づき立法や政策の見直しを迫られ、福祉国家や教育機会均等の制度整備が促進されました。
経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約
1993年

ジョージ・H・W・ブッシュ米国大統領とボリス・エリツィンロシア大統領、第二次戦略兵器削減条約(START II)に調印。

ブッシュ米国大統領とエリツィン露大統領が、冷戦後の核軍縮を目指して第二次戦略兵器削減条約(START II)に調印した。
1993年1月3日、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領とロシアのボリス・エリツィン大統領がモスクワでSTART IIに調印した。 この条約は戦略核弾頭数を大幅に削減し、相互信頼の醸成を目的とした。 両国は各2000~3000発の核兵器保有上限を定めたが、議会承認の遅れや政治的対立により発効に至らなかった。 最終的に条約は発効前に棚上げとなり、米露間の核軍縮は後続の条約に引き継がれた。 冷戦終結後の軍縮プロセスにおける重要なマイルストーンと位置付けられている。
1993年 ジョージ・H・W・ブッシュ 米国大統領 ボリス・エリツィン ロシア大統領 第二次戦略兵器削減条約