1521年
ローマ教皇レオ10世が回勅『デチェト・ロマヌム・ポンティフィチェム』を発行し、マルティン・ルターをカトリック教会から破門した。
1521年、教皇レオ10世が回勅を発行してマルティン・ルターを破門。
宗教改革に大きな影響を与えた歴史的事件。
1521年1月3日、ローマ教皇レオ10世は回勅『デチェト・ロマヌム・ポンティフィチェム』を発行し、マルティン・ルターを正式に破門しました。
この破門状は、ルターの贖宥状(免罪符)批判など教会批判を決定的に否定する内容でした。
当時のカトリック教会は宗教権威を守るために強硬な措置を選択し、ルターは異端と宣告されました。
この出来事は宗教改革をさらに加速させ、プロテスタントとカトリックの分裂を深める契機となりました。
ルター派の信者たちはその後も議論を続け、ヨーロッパの宗教地図を一変させていきました。
1521年
レオ10世
回勅
マルティン・ルター
破門
慶長19年12月4日
大坂冬の陣にて、真田丸の戦いが行われる。
1614年、大坂冬の陣で真田幸村率いる真田丸が徳川軍を迎え撃った。
巧妙な砦防御が当時の戦術を象徴した。
1614年1月3日、豊臣氏をめぐる大坂冬の陣の一戦として『真田丸の戦い』が勃発しました。
真田幸村は大坂城外に急造の砦『真田丸』を築き、土塁と堀を使った防御戦術を展開。
徳川方は総攻撃を繰り返したものの、狭隘地の利を活かした真田軍の抵抗に苦戦しました。
戦闘は数時間に及び、徳川軍は多くの損害を受けながらも砦を攻略できず撤退。
この戦いは真田幸村の軍事的才覚を示し、その後の講和条件にも大きな影響を与えました。
1614年
慶長
大坂冬の陣
真田丸の戦い
1777年
プリンストンの戦い: アメリカ独立戦争で大陸軍がイギリス軍に勝利。戦闘は1776年12月 26日のトレントンの戦いから始まり、ジョージ ワシントンが勝利を収めた。
1777年、プリンストンの戦いで大陸軍がイギリス軍に勝利。
ワシントンの大胆な奇襲作戦が奏功した。
1777年1月3日、アメリカ独立戦争中のプリンストンの戦いでジョージ・ワシントン率いる大陸軍がイギリス軍に勝利しました。
この戦闘はトレントンの奇襲勝利後、連勝を狙ったワシントンの夜襲作戦によるものでした。
奇襲は成功し、イギリス軍右翼を撹乱して混乱を生じさせ、プリンストン近郊での激しい街路戦が展開。
大陸軍は撤退を許さず、敵を駆逐したことで士気が大いに高まりました。
この勝利は独立派に対する国際的信用を高め、フランスの支援獲得に弾みを付けました。
1777年
プリンストンの戦い
アメリカ独立戦争
1818年
金星が木星面を通過する。惑星同士の通過・掩蔽は、これを最後に2065年11月22日までの247年間の長い空白期間に突入する。
1818年、金星が木星の前を通過する稀有な惑星間掩蔽が観測された。
次回は2065年まで247年間ないとされた。
1818年1月3日、金星が木星の前面を横切る惑星間掩蔽(おんぺい)が発生しました。
両惑星の公転軌道が偶然重なったこの現象は観測史上でも極めて稀でした。
当時の望遠鏡観測により、金星の暗いシルエットが木星ディスク上を動く様子が記録されました。
得られた観測データは惑星の軌道要素や大気環境の研究に利用され、天体力学の発展に寄与。
同じ掩蔽は2065年11月22日まで起こらないと予測され、長い空白期が続くとされました。
1818年
金星
木星
通過
掩蔽
2065年
11月22日
1833年
イギリスがジェームス・オンスロー提督の乗艦する軍艦HMS Clioをフォークランド諸島に派遣。
1833年、イギリス海軍がHMS Clioをフォークランド諸島に派遣し、実効支配を確立。
領有権問題の重要な局面となった。
1833年1月3日、ジェームス・オンスロー提督率いるHMS Clioがフォークランド諸島に派遣されました。
イギリス政府は武力行使を最小限に抑えつつ、島のアルゼンチン系当局に降伏を要求。
守備隊は抵抗を断念し、イギリスはフォークランドの行政管理を再構築しました。
この事件はアルゼンチンとイギリスとの領有権争いを激化させ、後の紛争の遠因ともなりました。
フォークランド諸島は以後、英連邦の海外領土として現在に至るまで統治が続いています。
1833年
イギリス
HMS Clio
フォークランド諸島
1848年
ジョセフ・ジェンキンズ・ロバーツがリベリア共和国の初代大統領に就任。
1848年、ジョセフ・J・ロバーツがリベリア共和国初代大統領に就任。
アフリカ初の共和制国家を導いた。
1848年1月3日、元アメリカ解放黒人協会メンバーのジョセフ・ジェンキンズ・ロバーツが初代大統領に就任。
リベリア共和国は1830年代に自由黒人移住地として成立し、1847年に正式に独立を宣言しました。
ロバーツは就任後、首都モンロビアの都市計画や政府機構の整備に注力。
彼の積極的な外交努力により、イギリス、フランス、アメリカなどから相次いで国交承認を獲得しました。
ロバーツ政権は国家建設の基盤を築き、リベリアの政治・社会制度の発展に大きな影響を与えました。
1848年
ジョセフ・ジェンキンズ・ロバーツ
リベリア共和国
慶応3年12月9日
王政復古の大号令。
1868年、王政復古の大号令が出され、幕府の権威が廃止されて朝廷中心の体制に移行。
明治維新の重要な一歩となった。
1868年1月3日(慶応3年12月9日)、王政復古の大号令が発布され、徳川幕府の権限が正式に廃止されました。
五摂家や公卿には参与・議定などの役職が与えられ、天皇親政による中央集権体制が確立。
号令の背後には薩摩、長州などの維新志士たちの画策があり、旧幕府体制の解体を法的に裏付けました。
江戸は東京と改称され、廃藩置県や近代的軍隊の編制へ向けた議論が本格化しました。
これにより日本は封建体制から近代国家へと転換し、西洋列強に対抗する道を歩み始めました。
1868年
慶応
12月9日
王政復古の大号令
1888年
当時世界最大の望遠鏡であるリック天文台の屈折望遠鏡で最初の観測が行われる。
1888年、リック天文台の当時世界最大屈折望遠鏡で初の観測。
天文学研究に革新をもたらした。
1888年1月3日、カリフォルニア州サンタクララのリック天文台で直径91センチの屈折望遠鏡が初観測を実施。
この望遠鏡はジェームズ・リック枢機卿の遺贈基金により建設され、世界最大の規模を誇りました。
高精度のレンズと頑丈な架台により、月面クレーターや惑星の衛星などの詳細観測が可能となりました。
得られた観測結果は星雲や銀河の構造研究に寄与し、20世紀初頭の天文学発展を後押ししました。
リック天文台はその後も最先端の観測機器を導入し、世界的な研究拠点としての地位を確立しました。
1888年
リック天文台
屈折望遠鏡
最初の観測
1889年
フリードリヒ・ニーチェが神経衰弱を発症。残りの人生を病人として過ごす。
1889年、哲学者ニーチェが神経衰弱を発症し、生涯を通じて精神的苦難を抱えた。
哲学界に衝撃を与えた転機。
1889年1月3日、フリードリヒ・ニーチェはイタリア南部のトリノで突如神経衰弱を発症し、精神的に崩壊しました。
彼は自らの馬に駆け寄って抱きつくなどの奇行を見せ、その後は入院と静養を余儀なくされました。
この発症によりニーチェは自らの哲学的活動能力を失い、創造的著作を生み出すことができなくなりました。
残る生涯を病人として過ごし、弟子や後進の学者たちが彼の未完の思想を後世に伝えました。
ニーチェの思想は彼の死後に再評価され、20世紀の哲学や文学に大きな影響を与えました。
1889年
フリードリヒ・ニーチェ
1899年
英語の"automobile"(自動車)という単語が、ニューヨーク・タイムズ紙の広告ではじめて使用される。
1899年、ニューヨーク・タイムズ紙広告で'automobile'が初めて使用された。
自動車時代の幕開けを象徴。
1899年1月3日、ニューヨーク・タイムズ紙の広告において、英語の'automobile'という単語が商業媒体に初登場しました。
この登場はガソリンエンジンを搭載した自動車の普及と産業化を反映しています。
広告では当時の最新モデルの性能や価格が簡潔に紹介され、富裕層の関心を集めました。
自動車は都市交通や物流を変革し、その後のモータリゼーションの基盤となりました。
'automobile'という言葉は各国語に取り入れられ、世界的に定着していきました。
1899年
英語
自動車
ニューヨーク・タイムズ
広告
1901年
アンドリュー・カーネギーがカーネギー財団を設立。
アンドリュー・カーネギーが教育研究支援を目的とする財団を設立した。
1901年1月3日、アンドリュー・カーネギーは教育と研究支援を目的としてカーネギー財団を設立しました。創設時の資金は当時としては巨額であり、アメリカ国内を中心に多くの大学や研究機関に助成金を提供しました。財団の活動は高等教育の発展に大きく貢献し、教育改革や学術研究への支援体制を強化しました。今日に至るまで、同財団は教育研究や奨学金事業などで世界的に影響力を持ち続けています。アンドリュー・カーネギーの社会的貢献の象徴として歴史に刻まれています。
1901年
アンドリュー・カーネギー
カーネギー財団
1929年
新潟県西頸城郡海岸で大暴風雪のため、30余人の死傷者が出る。
新潟県西頸城郡海岸を襲った大暴風雪で多くの死傷者が出た。
1929年1月3日、新潟県西頸城郡沿岸部は急激な気象変動により猛烈な暴風雪に見舞われました。強風と豪雪が同時に襲来し、視界不良や雪崩などが発生、多数の住宅が被害を受けました。救助活動は困難を極め、30余人の死傷者が報告されました。地元の交通は完全に麻痺し、復旧までに長期間を要しました。この災害は沿岸部の防災体制や気象観測の重要性を再認識させる契機となりました。
1929年
新潟県
西頸城郡