1492年
グラナダが陥落しナスル朝が滅亡。レコンキスタが終結。
1492年、スペイン最後のイスラム王朝ナスル朝の首都グラナダが陥落し、約800年にわたるレコンキスタ(国土回復運動)が完結しました。
スペイン南部のグラナダはナスル朝の最後の拠点でした。
カスティーリャ王フェルナンド2世とアラゴン女王イサベル1世が長期包囲戦の末に攻略。
711年から続いたイスラム勢力のイベリア半島支配がついに終わりを迎えました。
レコンキスタは宗教・文化の地図を大きく塗り替え、近代スペイン統一への道筋を築いた歴史的事件です。
勝利を収めた両王は後にコロンブスの航海を支援し、世界史に新たな展開をもたらしました。
1492年
グラナダ
ナスル朝
レコンキスタ
1777年
アメリカ独立戦争: プリンストンの戦い。
1777年、アメリカ独立戦争のプリンストンの戦いでジョージ・ワシントン率いる大陸軍がイギリス軍に勝利をおさめました。
プリンストンの戦いはニュージャージー州プリンストン近郊で起きた重要な交戦です。
クリスマスの夜にトレントンを脱出したワシントン軍が奇襲を敢行。
イギリス軍を撃退することで連邦軍の士気が飛躍的に高まりました。
勝利は兵士の再招集や支持拡大に寄与し、独立戦争の転機となります。
この功績はワシントンの指導力を示し、後の戦局にも大きな影響を与えました。
1777年
アメリカ独立戦争
プリンストンの戦い
1777年
アメリカ独立戦争: アッサンピンク・クリークの戦い。
1777年、アメリカ独立戦争中のアッサンピンク・クリークの戦いで独立軍が奮戦し、イギリス軍を退けました。
アッサンピンク・クリークの戦いはニューヨーク南部で行われた小規模な戦闘です。
ワシントン軍は巧妙な守備戦術を駆使してイギリス軍の攻勢を食い止めました。
激しい市街戦となり、民家が戦場と化すなど住民にも影響が及びました。
独立軍の奮戦は周辺の民衆支援を強め、後の南部戦線にも好影響を与えました。
この戦いは小規模ながらも独立運動を支える象徴的エピソードとされています。
アッサンピンク・クリークの戦い
1905年
日露戦争・旅順攻囲戦: ロシア軍の旅順要塞が、乃木希典将軍率いる日本軍により陥落。
1905年、日露戦争の旅順攻囲戦で乃木希典将軍率いる日本軍が旅順要塞を攻略し、決定的な勝利を収めました。
旅順要塞はロシア極東艦隊の重要拠点として堅牢に築かれていました。
乃木希典は厳冬の包囲戦を指揮し、砲撃と塹壕戦を組み合わせた攻撃を継続。
1905年1月2日、日本軍は最終防衛線を突破し、ロシア軍司令官を降伏させました。
この勝利は日本の戦局を有利にし、後の日本海海戦への道を開きました。
旅順攻略は日露戦争全体の転機となり、国際的評価にも大きく影響しました。
1905年
日露戦争
旅順攻囲戦
旅順要塞
乃木希典
1942年
第二次世界大戦: 日本軍がマニラを占領。
1942年1月2日、日本軍がフィリピンの首都マニラを占領し、フィリピン侵攻作戦の節目となった。
太平洋戦争開戦後、日本軍はフィリピン攻略を重要視し、第14軍(司令官本間雅晴中将)を中心に作戦を展開した。
1942年1月2日、アメリカ・フィリピン連合軍が撤退を余儀なくされる中、マニラ市内はほとんど戦闘を伴わずに陥落した。
占領後、マニラは日本軍の軍政下に置かれ、行政や治安の統制が進められた。
しかし度重なる空襲や戦争末期の市街戦により、市民の犠牲も大きかった。
最終的にマニラの占領は1945年2月にアメリカ・フィリピン連合軍による奪還まで続いた。
1942年
第二次世界大戦
日本軍
マニラ
1943年
第二次世界大戦・ポートモレスビー作戦: ニューギニアのブナで日本軍が玉砕する。
1943年1月2日、ポートモレスビー作戦中のニューギニア・ブナで日本軍部隊が玉砕した。
第二次世界大戦南太平洋戦線において、日本軍はポートモレスビー攻略を目指しニューギニアに進出した。
1942年末からブナに陣地を構築して守備を固めていたが、連合軍の反攻により包囲された。
1943年1月2日、食糧不足と病気に苦しむ日本軍部隊は退却できず、結果的に玉砕の形で全滅した。
この戦闘は過酷なジャングル戦と補給線遮断の危険性を浮き彫りにし、戦略的に日本側の敗北を決定づけた。
以降、日本軍はニューギニア西部全域からの撤退を余儀なくされた。
1943年
ポートモレスビー作戦
ニューギニア
日本軍