1492年

グラナダが陥落しナスル朝が滅亡。レコンキスタが終結。

1492年、スペイン最後のイスラム王朝ナスル朝の首都グラナダが陥落し、約800年にわたるレコンキスタ(国土回復運動)が完結しました。
スペイン南部のグラナダはナスル朝の最後の拠点でした。 カスティーリャ王フェルナンド2世とアラゴン女王イサベル1世が長期包囲戦の末に攻略。 711年から続いたイスラム勢力のイベリア半島支配がついに終わりを迎えました。 レコンキスタは宗教・文化の地図を大きく塗り替え、近代スペイン統一への道筋を築いた歴史的事件です。 勝利を収めた両王は後にコロンブスの航海を支援し、世界史に新たな展開をもたらしました。
1492年 グラナダ ナスル朝 レコンキスタ
天正13年11月13日

徳川家康の重臣石川数正が豊臣秀吉のもとに出奔。

徳川家康の重臣・石川数正が突然豊臣秀吉に寝返り、天下分け目の政局に大きな影響を与えました。
石川数正は家康の信頼厚い家臣として知られていました。 家康と秀吉の勢力争いが激化する中、数正は豊臣政権側へと接近しました。 出奔が発覚した家康は深い裏切りと受け止め、政権内部に不信感が拡大。 この事件は関ヶ原の戦いをはじめとする後の政局にも影響を与えたとされます。 数正は秀吉政権下で要職に就きながら、忠義と裏切りの問題が歴史的論争を呼び続けました。
1586年 天正 11月13日 徳川家康 石川数正 豊臣秀吉
元和9年11月12日

平戸のイギリス商館が閉鎖。

1624年、幕府の鎖国政策強化により平戸のイギリス商館が閉鎖され、欧州貿易の拠点が長崎に集約されました。
平戸のイギリス商館は江戸初期に設置された欧州との貿易拠点でした。 幕府は対外貿易を統制するため、1624年に商館閉鎖を決定。 これによりイギリスとの正式交易は途絶え、オランダ商館だけが長崎出島に残されました。 閉鎖後も密貿易は続きましたが、鎖国体制は一層厳格化。 平戸の商館排除は江戸時代の対外政策史における重要な転換点となりました。
1624年 元和 11月12日 平戸 イギリス商館
1777年

アメリカ独立戦争: プリンストンの戦い。

1777年、アメリカ独立戦争のプリンストンの戦いでジョージ・ワシントン率いる大陸軍がイギリス軍に勝利をおさめました。
プリンストンの戦いはニュージャージー州プリンストン近郊で起きた重要な交戦です。 クリスマスの夜にトレントンを脱出したワシントン軍が奇襲を敢行。 イギリス軍を撃退することで連邦軍の士気が飛躍的に高まりました。 勝利は兵士の再招集や支持拡大に寄与し、独立戦争の転機となります。 この功績はワシントンの指導力を示し、後の戦局にも大きな影響を与えました。
1777年 アメリカ独立戦争 プリンストンの戦い
1777年

アメリカ独立戦争: アッサンピンク・クリークの戦い。

1777年、アメリカ独立戦争中のアッサンピンク・クリークの戦いで独立軍が奮戦し、イギリス軍を退けました。
アッサンピンク・クリークの戦いはニューヨーク南部で行われた小規模な戦闘です。 ワシントン軍は巧妙な守備戦術を駆使してイギリス軍の攻勢を食い止めました。 激しい市街戦となり、民家が戦場と化すなど住民にも影響が及びました。 独立軍の奮戦は周辺の民衆支援を強め、後の南部戦線にも好影響を与えました。 この戦いは小規模ながらも独立運動を支える象徴的エピソードとされています。
アッサンピンク・クリークの戦い
1788年

ジョージア州がアメリカ合衆国憲法を批准し、アメリカ合衆国4番目の州となる。

1788年、ジョージア州が合衆国憲法を批准し、4番目の州として正式にアメリカ合衆国に加盟しました。
アメリカ合衆国憲法は1787年に制定され、各州ごとの批准を必要としていました。 ジョージア州は1788年1月2日に批准を決定し、4番目の加盟州となりました。 加盟により連邦議会への代表権を獲得し、地域の政治的発言力が強化。 農業を基盤とした経済が発展し、サウスカロライナ州とともに南部経済圏を形成しました。 ジョージア州の参加は建国初期の政治的安定化と連邦政府の構築に寄与しました。
1788年 ジョージア州 アメリカ合衆国憲法 アメリカ合衆国
1843年

リヒャルト・ワーグナーの歌劇『さまよえるオランダ人』がドレスデンでワーグナー自身の指揮により初演。

1843年、ワーグナー自身の指揮で歌劇『さまよえるオランダ人』がドレスデンで初演され、ロマン派音楽の幕開けとなりました。
『さまよえるオランダ人』はワーグナー初期の大規模楽劇です。 1843年1月2日、ドレスデン宮廷歌劇場で作曲者自らが指揮を執りました。 呪われた船長の伝説を題材にしたドラマティックな物語と革新的な和声法が特徴。 合唱とオーケストラの緊密な連携がロマン派音楽の新境地を切り開きました。 この成功によりワーグナーの名声はヨーロッパ全土に広がりました。
1843年 リヒャルト・ワーグナー さまよえるオランダ人 ドレスデン
1904年

報知新聞に日本初の新聞写真として川上貞奴の写真が掲載される。

1904年、報知新聞に日本初の新聞写真として女優・川上貞奴の肖像が掲載され、新聞報道の表現が一変しました。
新聞はこれまで文字情報が中心でしたが、報知新聞は技術革新に挑戦。 1904年1月2日付で川上貞奴の写真を掲載し、視覚的な報道手法を導入しました。 新聞写真は読者にリアリティある情報を提供し、記事の魅力を飛躍的に高めました。 他紙も追随して写真掲載を始め、メディア表現の多様化が急速に進展。 この一歩はジャーナリズムと写真技術の歴史における画期的事件です。
1904年 報知新聞 写真 川上貞奴
1905年

日露戦争・旅順攻囲戦: ロシア軍の旅順要塞が、乃木希典将軍率いる日本軍により陥落。

1905年、日露戦争の旅順攻囲戦で乃木希典将軍率いる日本軍が旅順要塞を攻略し、決定的な勝利を収めました。
旅順要塞はロシア極東艦隊の重要拠点として堅牢に築かれていました。 乃木希典は厳冬の包囲戦を指揮し、砲撃と塹壕戦を組み合わせた攻撃を継続。 1905年1月2日、日本軍は最終防衛線を突破し、ロシア軍司令官を降伏させました。 この勝利は日本の戦局を有利にし、後の日本海海戦への道を開きました。 旅順攻略は日露戦争全体の転機となり、国際的評価にも大きく影響しました。
1905年 日露戦争 旅順攻囲戦 旅順要塞 乃木希典
1930年

第1回朝日学術賞授与式。

1930年、第一回朝日学術賞の授与式が行われ、若手研究者の優れた業績が初めて表彰されました。
朝日学術賞は朝日新聞社が優れた学術研究を奨励するために創設した賞です。 第1回授与式は1930年1月2日に東京で開催されました。 自然科学から人文社会科学まで多岐にわたる研究成果が選考対象とされました。 受賞者は当時の若手研究者で、学術振興と新たな研究への刺激となりました。 この創設は日本における学術研究支援の歴史的転換点と評価されています。
1930年
1937年

イギリスの戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」の建造開始。1939年に進水。

イギリス海軍の戦艦プリンス・オブ・ウェールズの建造が1937年に開始され、1939年に進水した。
1937年1月2日、イングランド北東部の造船所でキング・ジョージ5世級戦艦2番艦プリンス・オブ・ウェールズの建造が始まった。 設計は最新鋭の装甲と大口径砲を備え、第二次世界大戦期のイギリス海軍の主力戦艦として計画された。 1939年6月に進水し、その後は整備と試運転を経て1941年に就役した。 就役後は大西洋や地中海で護衛および戦闘任務に従事した。 1941年12月10日、マレー沖海戦で日本海軍の攻撃を受けて撃沈され、その勇壮な戦歴を終えた。
1937年 イギリス 戦艦 プリンス・オブ・ウェールズ 1939年
1942年

第二次世界大戦: 日本軍がマニラを占領。

1942年1月2日、日本軍がフィリピンの首都マニラを占領し、フィリピン侵攻作戦の節目となった。
太平洋戦争開戦後、日本軍はフィリピン攻略を重要視し、第14軍(司令官本間雅晴中将)を中心に作戦を展開した。 1942年1月2日、アメリカ・フィリピン連合軍が撤退を余儀なくされる中、マニラ市内はほとんど戦闘を伴わずに陥落した。 占領後、マニラは日本軍の軍政下に置かれ、行政や治安の統制が進められた。 しかし度重なる空襲や戦争末期の市街戦により、市民の犠牲も大きかった。 最終的にマニラの占領は1945年2月にアメリカ・フィリピン連合軍による奪還まで続いた。
1942年 第二次世界大戦 日本軍 マニラ