193年

ペルティナクスがローマ皇帝に即位。

193年、ローマ帝国でペルティナクスが皇帝に即位した日です。
ペルティナクスは内政の再建と軍隊の規律回復を掲げて即位しました。 193年は「五皇帝の年」と呼ばれ、短期間に多くの皇帝が交代しています。 前皇帝コモドゥス暗殺後、元老院の支持を得て皇帝の座をつかみました。 しかし治世はわずか三か月足らずで、近衛兵団の反乱によって暗殺されました。 彼の即位はローマ帝国における権力闘争の激しさを物語っています。
193年 ペルティナクス ローマ皇帝
養和元年11月25日

平徳子が院号宣下され建礼門院となる。

1182年に平徳子が院号宣下を受け、建礼門院となった日です。
平徳子は平清盛の娘であり、二条天皇の中宮として知られます。 1182年11月25日、院号「建礼門院」を宣下されました。 この院号は皇族以外の女性に与えられる高位の称号です。 平家一門の隆盛を象徴し、後白河上皇の施政に深く関与したとされます。 壇ノ浦の戦い後には出家し、仏門に入ったことで知られています。
1182年 養和 11月25日 平徳子 院号
1651年

チャールズ2世がスコットランド王に即位。

1651年、チャールズ2世がスコットランド王に即位した日です。
1651年1月1日、チャールズ2世がスコットランドで王位を宣言しました。 彼は父チャールズ1世の処刑後、亡命先から復権を目指していました。 スコットランドではイングランド共和国に対抗する拠点として支持を集めました。 同年にはスコットランド王冠を戴冠し、名目的な統治を開始しました。 その後のイングランド王政復古(1660年)につながる重要な布石となりました。
1651年 チャールズ2世 スコットランド
1707年

ジョアン5世がポルトガル王に即位。

1707年、ジョアン5世がポルトガル王に即位した日です。
1707年1月1日、ジョアン5世が父ペドロ2世の跡を継いでポルトガル王に即位しました。 彼の治世はブラジルからの金鉱やダイヤモンドの富を背景に繁栄を迎えました。 芸術や建築の庇護者として知られ、マフラ宮殿建設などを主導しました。 カトリック教会との関係も強化し、多くの修道院や教会を支援しました。 中南米との貿易拡大により国家財政は安定したと言われています。
1707年 ジョアン5世 ポルトガル
1801年

合同法によりグレートブリテン王国とアイルランド王国が合併。

1801年、合同法によりグレートブリテン王国とアイルランド王国が合併した日です。
1801年1月1日、合同法(Act of Union)が発効し、グレートブリテン王国とアイルランド王国が合併しました。 これにより両王国は法的に一つの「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」となりました。 アイルランド議会は解散され、議員はウェストミンスターに送られました。 統合の背景には1798年のアイルランド反乱鎮圧と支配強化の狙いがありました。 しかしカトリック教徒の権利問題は依然として未解決のまま残りました。
1801年 合同法 グレートブリテン王国 アイルランド王国
1804年

ハイチがフランスから独立。初の黒人国家に。

1804年、ハイチがフランスから独立し、初の黒人国家となった日です。
1804年1月1日、ハイチがフランスからの独立を宣言し、世界初の黒人共和国が誕生しました。 これはハイチ革命の成功を受けたもので、元奴隷たちによる独立運動が結実した瞬間です。 指導者ジャン=ジャック・デサリーヌが初代元首に就任しました。 独立は国際社会に大きな衝撃を与え、各地で奴隷解放運動に影響を及ぼしました。 しかし欧米諸国からの経済封鎖や債務を抱え、困難な道のりが続きました。
1804年 ハイチ フランス 黒人
1806年

バイエルン大公国がバイエルン王国、ヴュルテンベルク公国がヴュルテンベルク王国となる。

1806年、新たなヨーロッパ秩序の中でバイエルン大公国とヴュルテンベルク公国が王国へと昇格しました。
1806年1月1日、ナポレオン・ボナパルトの影響下で神聖ローマ帝国が解体される中、バイエルン大公国はバイエルン王国へ、ヴュルテンベルク公国はヴュルテンベルク王国へと昇格しました。 両地域の君主は正式に王位を授かり、その主権と独立性が大きく強化されました。 この昇格は、ナポレオン戦争期における同盟関係構築の一環として実施されました。 バイエルン王国とヴュルテンベルク王国はフランスとの協力関係を深め、軍事面での支援を受けました。 一方で、神聖ローマ帝国の終焉を象徴する出来事ともなりました。
1806年 バイエルン王国 ヴュルテンベルク公国 ヴュルテンベルク王国
1820年

スペイン立憲革命勃発。ラファエル・デル・リエゴが指導。

スペインで立憲主義を求める蜂起が勃発し、ラファエル・デル・リエゴが指導者となりました。
1820年1月1日、スペインで軍人ラファエル・デル・リエゴが立憲政治を求める蜂起を起こし、スペイン立憲革命が勃発しました。 デル・リエゴは憲法制定を掲げ、王政に対する憲政改革を求める運動を展開しました。 この革命はフェルナンド7世の専制政治への反発として始まり、リベラル派と保守派の対立を深めました。 結果的にフェルナンド7世は憲法を承認し、一時的に立憲君主制が復活しました。 しかし、その後の情勢変化により革命の成果は揺らぎ、スペインの政治は不安定な状態が続きました。
1820年 スペイン立憲革命 ラファエル・デル・リエゴ
1863年

アメリカ大統領・リンカーンが「奴隷解放宣言」を布告。

リンカーン大統領が南北戦争中に奴隷制度を廃止する「奴隷解放宣言」を布告しました。
1863年1月1日、エイブラハム・リンカーン大統領は南北戦争の最中に奴隷解放宣言を公式に布告しました。 この宣言により、反乱を続ける南部の州におけるすべての奴隷が法的に解放されると宣言されました。 宣言は即時に解放を保障するものではなく、連邦が実効支配する地域に限定されたものでした。 しかしながら、国際的に奴隷制度廃止の流れを加速し、北軍への支持を強化する効果を生みました。 従来の社会制度に大きな衝撃を与え、その後の憲法修正第13条による奴隷制度廃止の土台を築きました。
1863年 アメリカ大統領 リンカーン 奴隷解放宣言
1899年

スペインによるキューバ支配が終結。

スペインによるキューバ支配が正式に終結し、島の独立への道が開かれました。
1899年1月1日、スペインによるキューバ支配が公式に終結しました。 1898年の米西戦争でスペインが敗北した後、パリ条約によりキューバの独立が確認されました。 実質的にはアメリカ合衆国の保護下に置かれ、キューバ共和国の成立準備が進められました。 スペイン植民地時代からの統治体制が終わり、キューバ人による自治が模索されるようになりました。 この出来事はラテンアメリカにおける独立運動の象徴的な一歩とされています。
1899年 スペイン キューバ
1900年

ドイツ民法典施行。

1900年1月1日にドイツ民法典が施行され、近代的な市民法体系が始まりました。
19世紀末からの法典編纂を経て、1900年にドイツ民法典が施行されました。私法の統一と近代化を目的とし、市民の権利保護や契約の規範を明確化しました。本法典はその後の諸国の民法典編纂に大きな影響を与え、法学にも新しい潮流をもたらしました。現在でもドイツ民法典は民法研究の重要な資料とされています。その厳密な体系性と学説的深みは世界中の法学者から高く評価されています。
1900年 ドイツ民法典
1901年

ナイジェリアがイギリスの保護国になる。

ナイジェリアがイギリスの保護国となり、英国植民地支配下に置かれました。
1885年のベルリン会議以降、イギリスはナイジェリアいくつかの地域を保護領化し、統治体制を整えました。1901年1月1日、正式にナイジェリア保護領が発足し行政機関が設置されました。これにより地元の政権構造が変容し、農業や貿易の資源開発が進められました。保護国化は後のナイジェリア連邦構想や独立運動の基盤ともなりました。この動きは西アフリカ全域における植民地政策の典型例として歴史に刻まれています。
1901年 ナイジェリア イギリス