紀元前4713年
ユリウス通日の起算日時。
ユリウス通日の起算日が紀元前4713年1月1日に設定された日です。
ユリウス通日(Julian day)は天文学や暦の計算で用いられる連続日数の起算点です。
起算日は紀元前4713年1月1日(ユリウス暦)と定められています。
この制度は1583年に天文学者ヨハン・スカリゲルによって導入されました。
基準を統一することで、歴史的記録や天体観測の日時比較が容易になりました。
現在も天文学や気象学などで広く利用されています。
紀元前4713年
ユリウス通日
193年
ペルティナクスがローマ皇帝に即位。
193年、ローマ帝国でペルティナクスが皇帝に即位した日です。
ペルティナクスは内政の再建と軍隊の規律回復を掲げて即位しました。
193年は「五皇帝の年」と呼ばれ、短期間に多くの皇帝が交代しています。
前皇帝コモドゥス暗殺後、元老院の支持を得て皇帝の座をつかみました。
しかし治世はわずか三か月足らずで、近衛兵団の反乱によって暗殺されました。
彼の即位はローマ帝国における権力闘争の激しさを物語っています。
193年
ペルティナクス
ローマ皇帝
養和元年11月25日
平徳子が院号宣下され建礼門院となる。
1182年に平徳子が院号宣下を受け、建礼門院となった日です。
平徳子は平清盛の娘であり、二条天皇の中宮として知られます。
1182年11月25日、院号「建礼門院」を宣下されました。
この院号は皇族以外の女性に与えられる高位の称号です。
平家一門の隆盛を象徴し、後白河上皇の施政に深く関与したとされます。
壇ノ浦の戦い後には出家し、仏門に入ったことで知られています。
1182年
養和
11月25日
平徳子
院号
1558年
フランソワ・ド・ギーズがカレーに対して包囲戦を開始。
1558年、フランソワ・ド・ギーズがカレー包囲戦を開始した日です。
1558年1月1日、フランソワ・ド・ギーズ率いるフランス軍がカレー包囲戦を開始しました。
当時カレーはイングランドの最後の本土拠点として重要視されていました。
包囲戦は約一週間にわたり、最新の砲撃戦術が投入されました。
最終的にイングランド守備隊は降伏し、カレーはフランス領に戻されました。
この勝利はフランス王アンリ2世の威信を高める結果となりました。
1558年
フランソワ・ド・ギーズ
カレー
包囲戦
1651年
チャールズ2世がスコットランド王に即位。
1651年、チャールズ2世がスコットランド王に即位した日です。
1651年1月1日、チャールズ2世がスコットランドで王位を宣言しました。
彼は父チャールズ1世の処刑後、亡命先から復権を目指していました。
スコットランドではイングランド共和国に対抗する拠点として支持を集めました。
同年にはスコットランド王冠を戴冠し、名目的な統治を開始しました。
その後のイングランド王政復古(1660年)につながる重要な布石となりました。
1651年
チャールズ2世
スコットランド
1700年
ロシアがユリウス暦へと切り替わる。
1700年、ロシア帝国でユリウス暦が正式に採用された日です。
1700年1月1日、ロシア帝国はそれまで用いられていたビザンティン暦からユリウス暦へ切り替えました。
この改暦はピョートル大帝の西欧化政策の一環として実施されました。
新年の開始日を9月1日から1月1日に変更し、欧州諸国と暦を統一しました。
従来の宗教的儀式との調整も行われ、行政手続きが簡略化されました。
この改革によりロシアは国際的な交流や貿易で有利な立場を得ました。
1700年
ロシア
ユリウス暦
1707年
ジョアン5世がポルトガル王に即位。
1707年、ジョアン5世がポルトガル王に即位した日です。
1707年1月1日、ジョアン5世が父ペドロ2世の跡を継いでポルトガル王に即位しました。
彼の治世はブラジルからの金鉱やダイヤモンドの富を背景に繁栄を迎えました。
芸術や建築の庇護者として知られ、マフラ宮殿建設などを主導しました。
カトリック教会との関係も強化し、多くの修道院や教会を支援しました。
中南米との貿易拡大により国家財政は安定したと言われています。
1707年
ジョアン5世
ポルトガル
1801年
合同法によりグレートブリテン王国とアイルランド王国が合併。
1801年、合同法によりグレートブリテン王国とアイルランド王国が合併した日です。
1801年1月1日、合同法(Act of Union)が発効し、グレートブリテン王国とアイルランド王国が合併しました。
これにより両王国は法的に一つの「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」となりました。
アイルランド議会は解散され、議員はウェストミンスターに送られました。
統合の背景には1798年のアイルランド反乱鎮圧と支配強化の狙いがありました。
しかしカトリック教徒の権利問題は依然として未解決のまま残りました。
1801年
合同法
グレートブリテン王国
アイルランド王国
1801年
ジュゼッペ・ピアッツィがシチリア島のパレルモ天文台でケレスを発見。史上初の小惑星発見とされる。
1801年、ジュゼッペ・ピアッツィがケレスを発見した日です。
1801年1月1日、シチリア島パレルモ天文台でジュゼッペ・ピアッツィがケレスを発見しました。
ケレスは小惑星帯で最初に発見された天体として知られています。
当時は惑星と考えられ、その後「小惑星」という分類が生まれました。
発見により天文学は新たな段階に入り、天体観測技術の進歩を促しました。
ケレスは現在も地球近傍天体として重要な研究対象となっています。
ジュゼッペ・ピアッツィ
シチリア島
パレルモ
ケレス
小惑星
1804年
ハイチがフランスから独立。初の黒人国家に。
1804年、ハイチがフランスから独立し、初の黒人国家となった日です。
1804年1月1日、ハイチがフランスからの独立を宣言し、世界初の黒人共和国が誕生しました。
これはハイチ革命の成功を受けたもので、元奴隷たちによる独立運動が結実した瞬間です。
指導者ジャン=ジャック・デサリーヌが初代元首に就任しました。
独立は国際社会に大きな衝撃を与え、各地で奴隷解放運動に影響を及ぼしました。
しかし欧米諸国からの経済封鎖や債務を抱え、困難な道のりが続きました。
1804年
ハイチ
フランス
黒人
1806年
バイエルン大公国がバイエルン王国、ヴュルテンベルク公国がヴュルテンベルク王国となる。
1806年、新たなヨーロッパ秩序の中でバイエルン大公国とヴュルテンベルク公国が王国へと昇格しました。
1806年1月1日、ナポレオン・ボナパルトの影響下で神聖ローマ帝国が解体される中、バイエルン大公国はバイエルン王国へ、ヴュルテンベルク公国はヴュルテンベルク王国へと昇格しました。
両地域の君主は正式に王位を授かり、その主権と独立性が大きく強化されました。
この昇格は、ナポレオン戦争期における同盟関係構築の一環として実施されました。
バイエルン王国とヴュルテンベルク王国はフランスとの協力関係を深め、軍事面での支援を受けました。
一方で、神聖ローマ帝国の終焉を象徴する出来事ともなりました。
1806年
バイエルン王国
ヴュルテンベルク公国
ヴュルテンベルク王国
1817年
オットー・フォン・コツェブーが島を発見しノイヤール島(直訳すれば「新年島」、現在のマーシャル諸島のメジット島)と名づける。
ドイツの航海者オットー・フォン・コツェブーが南太平洋で新たな島を発見し、『新年島』と命名しました。
1817年1月1日、探検家オットー・フォン・コツェブーがマーシャル諸島付近で未知の島を発見しました。
彼はドイツ語で『新年』を意味する『ノイヤール』と命名し、新年の始まりに合わせた名称としました。
この島は現在、メジット島として知られており、マーシャル諸島共和国の構成島の一つです。
当時の航海記録は太平洋地域の地図作成に貴重な情報を提供し、後の探検や移民に影響を与えました。
コツェブーの発見は、ヨーロッパ列強による太平洋諸島への関心を高めるきっかけともなりました。
1817年
オットー・フォン・コツェブー
マーシャル諸島